普通の人と比べて、燐の力は強いらしい。
それは成長してようやく理解出来たことだけれど、幼い頃は何もわからないまま色んな物を壊していた。
幼い頃も、新しいものではなかったけれど次々と与えられるおもちゃやぬいぐるみは毎回形を変えていて、二度同じもので遊んだ記憶はほとんどない。雪男が遊んでいたものに関しては記憶があるのだから、入れ替えが激しかったのは燐のものだけだったということだろう。
そして、いつの間にかもので遊ぶことを止めた。修道院を飛び出して、外で走り回るようになった。
それでも加減を知らない子供は子供らしからぬ怪力で木や遊具を壊した。
どうしてこんなにも脆いのか理解できない燐に、藤本神父はそれでも朗らかに笑ってくれていたから。
「お前は人より少し力が強いんだ。もう少しだけそっと、壊さないように加減できるようにならなきゃあな」
そして、燐は覚えた。壊さないように力を加減すること。
感情が爆発してしまった時は相変わらず色々なものを壊していたけれど、それでも日常生活を送れるくらいには力の加減を覚えていた。
それなのに、無意識というどうしようもない事態でそれは起こってしまった。
*幼きあの日の… 02*
「ゆき、ゆきお!とうさん、おれ、おれ…!!」
どうしてだと、責めるような目で見つめられたのが信じられなくて、燐は自分自身がわからなくなった。
守りたかっただけだ。苦しそうな弟を助けてやりたかっただけ。それなのに、弟はもうぴくりとも動かない。
壊してしまった。おもちゃや遊具は壊れても寂しくなるだけだったのに、弟を壊してしまった今は怖くてたまらない。
「燐、違う、お前のせいじゃない。お前が悪い訳じゃないんだ」
走り回る大人の足音と、近づいてくる救急車のサイレン。
弟の小さな体は白い車の中に吸い込まれて、燐から遠く離れていく。
「大丈夫だ。雪男はすぐ帰ってくる。俺もな。…少しだけ留守番していてくれよ」
暖かな父の、柔らかい抱擁に燐の頬から我慢できなくなった涙が零れ落ちる。
くしゃりと頭を撫でられて、ぎゅうと抱きしめてくれた腕はとても暖かいことを知っていた。
「お前が悪い訳じゃない。大丈夫だ燐。そんな顔をするな」
大きな手に涙を拭われて、そんな父の黒い服を着た身体も白い車に吸い込まれていく。
大きなサイレンを鳴らして離れていく車体を、燐はじっと、弟の名前を呼びながらじっと見送っていた。
その頃から、一度は制御出来ていたはずの力は再び枷を忘れたように色んな物を壊した。
感情が高ぶって我慢できない日も多く、燐が覚えていないだけでも様々なものを怖し、相当な人数を病院送りにしただろう。
それはまだ燐のような幼い子供が出来る所業ではなかった。
大人たちはそんな燐を挙って悪魔と罵った。
大人を真似て、子供たちも燐を悪魔と罵った。
荒れ狂う感情は、言葉の暴力とともに弟を殺しかけた悪夢を何度でも燐に見せつける。元々高熱を出していた雪男はあのまま緊急入院となってまだ燐は顔も見ていない。
もし帰って来た弟にまで悪魔と言われたら。嫌われてしまったら。
あの時、信じられないという目で燐を見た父を思い出して、荒れた感情はそのまま父へと跳ねかえった。
ひとのからだはやわらかくて、暴れた燐の拳は父の身体に深く埋まる。骨が砕ける音がした。
それでも養父は痛みに堪えながら、燐を優しく諭してくれた。「お前は人間だ」と何度でもその言葉を否定してくれたから、燐は泣きながら拳をにぎりしめ、弟と同じように白い車に吸い込まれていく父を再び見送ったのだ。
院に戻ってから、誰もいない部屋の隅で、燐は泣いた。
ベッドに寝転がることさえ怖い。壊してしまうからと何にも触れない。
触れられるのは自分だけとでもいうように、膝を抱えて泣き続けた。
それから一時は何も触れない子供になっていたけれど、骨が繋がるのを待たずして帰って来た父はそれでも燐に何でも触らせた。最初は殆ど無理矢理に。痛かっただろうに、暴れる燐をそれでも腕に閉じ込めるように抱きしめながら。
「大丈夫だ燐。俺だって、加減を忘れたら…こうだ。こんなに簡単にものは壊れる。だから、壊れないように触るんだ」
握りつぶされてぐちゃぐちゃになった卵を眺めながら、燐に同じように卵を握らせる。
なんども、何度もわかるまで。燐が怖がることを止めるまで、それは続けられた。
それからは料理を通して、動物などを通して、燐に人としての力の加減を覚えさせた。
そんな頃になってようやく戻ってきた弟は、何も変わらずに燐を兄と慕ったままの弟だった。
殺されかけたのに、怯えるどころか、自身に触れてくれなくなった片割れに寂しがって泣くほどには雪男は雪男のままだった。
「どうして、にいさんはぼくにさわってくれないの」
「おれはゆきおがだいじだから。また、まえみたいになったら、こわいから……」
「でも、それじゃぼくがさみしいよ」
元々何をするにもべったりとくっ付いていた二人だ。突然一方的に突き放された雪男は、その現状を受け入れられなかった。
「だったら」
抱きついてきた弟の柔らかい肌に、燐の身体がびくりと震える。けれど、逃がさないようにぎゅうと腕に力を込めて、子供らしい精一杯の力で燐を閉じ込める。
「だったら、ぼくがにいさんをさわる。にいさんがさわれないぶん、ぼくがたくさんたくさんさわってあげる」
そこまで言えば、燐は驚いた顔はしていたけれど、決して嫌な顔はしなかった。
「……うん」
むしろ、もうしわけなさそうに、けれど嬉しそうに弟からの接触を喜んだ。
幼い接触を、恥ずかしそうにしながらも喜んでいたのだ。
何も知らなかった、あの頃は。
「もう触るな、雪男」
「どうして、こんな急に?」
幼い子供は少年になった。身体も成長した。
人を殴って喧嘩が出来るほどには加減を覚えたから、今では燐が何かを壊すことはなくなった。
燐は基本的に人に触ろうとはしない。それでも手を差し出せば握り返せるようになった。
でもそれは他人に限った話で。
相変わらず弟だけは触れない。だから、燐が触れない分、雪男はたくさん燐に触れていた。
幼い頃からの習慣だから、今更触るなと言われても逆に難しい。
怪我をすれば手に取って丁寧に手当てをしたり、乱雑な燐の髪を寝癖をなおしてやったり。
よく眠る燐の涎を拭うのも、食べ零しを舐めてやるのも、その身体を洗ってやるのも全て雪男だけが出来たことだ。
雪男にとっては隣にある身体を抱きしめるのが当たり前で、自分ひとりの体温だけだととても寂しくて心もとない。
高校に入学した時を期に、一時は離れて暮らすことになるだろうと覚悟はしていた。
けれど、出来うる限り雪男は修道院に戻るつもりでいたのだし、これからもずっとこの触れ合いを止めるつもりはなかったのだ。
「もうだめなんだよ。俺は…にんげんじゃ、なかったんだ」
そんな時に、養父が死んだ。
燐は知ってしまったのだ。どうして人より力が強いのか。その理由を。
そして覚醒してしまった身体には、ちらりと覘く八重歯や尖った耳、人にはありえない悪魔の尻尾が生えてしまった。
燐の身体の変化は、昔から兄が『何であるのか』知っていた雪男と違って、燐本人の方が衝撃だったのだろう。
「もう俺に触るな」
「いやだよ」
頬に触れる。一瞬硬直した身体はそれでも、雪男の手を振り払うことはしない。出来ない。
一歩下がって逃げようとした腰に腕を回せば、追い越した身長で燐の身体はすっぽりと雪男の腕の中に納まった。
「雪男」
「嫌だよ。悪魔がなんだっていうの。覚醒していなくても、僕も同じなんだ。人だろうが悪魔だろうが僕にとって兄さんは兄さんだ。僕らは唯一同じ血がつながった兄弟なんだ」
燐の身体は、弟を傷つけないために、弟が触れた場所から反射のように力が抜けるようになっていた。
「駄目だ、雪男」
「嫌だ、触るからね。これまで通り。ううん、今まで以上に、たくさん触ってあげる」
殆ど雪男に凭れるように力が抜けた身体を抱えて、背後のベッドにそっと寝かせる。
見慣れない制服に身を包んだ燐を、髪の先から足の指先までじっくりと眺めて、触れて、喉元を締めるネクタイをそっと引き抜いた。上着に手を掛けて肩から降ろし、留められたボタンを一つずつゆっくり外していく。
「……ゆき、お?」
「前からもっと触りたいって思ってたんだ。でも神父さんもみんなもいたし、我慢してた。けれど、もう必要ないよね」
ぎし、と軋んだ作り付けのベッドは雪男の動きに合せて悲鳴を上げる。
露わになった素肌に手を滑らせても、燐は抵抗しない。暴れもしない。今から何をされるのかよくわかっていないのかもしれないが、ただ弟を見上げたまま、綺麗な青い瞳は迷うように揺らめいている。
「嫌だったら抵抗して。僕を殴ってでもここから逃げてみろよ。…逃げないなら、僕は好きに兄さんに触る。良いんだよね?」
「いや、だ…」
「だったら抵抗して見せて。簡単でしょう。僕に触って、押し退ければいいだけだ。僕の身体を蹴り上げて、ベッドから逃げ出せばいいだけだ。…嫌なら、どうして抵抗しないの?もっと触るよ?」
燐はただ、嫌だと訴えるように首を振るだけ。どうしたって弟には、雪男に触ろうとはしない。
雪男は笑った。どんなことをされてもきっとこの兄は抵抗さえしないのだと知っていたけれど。
細い腰からベルトを緩めて、スラックスを奪う。流石に驚いた様子の燐であったけれども、やはり身体から力は抜けきったままで、身じろぎすら出来ない。
「どんな形でもいい。暴力でもいい。…でも、本当は抱擁がいい。小さい頃みたいに兄さんにぎゅってされたい。ねえ兄さん、嫌じゃないなら僕を抱きしめて。髪を撫でて、頬に触って、キスをちょうだい」
色んなものに触れなくなった燐を、父も雪男も、今まで以上に接触をもって愛した。愛してきた。
撫でて、触れて、抱き締めて。お前に触る手はここにあるよと訴えるように。
でもその代り、雪男に触れる手がなくなったのだ。
養父を失った今、雪男を抱きしめてくれる腕はもう何処にもないのだから。
「…兄さんが欲しい。ねえ、僕だって寂しいんだ。抱き締めて欲しいんだよ」
日に焼けていない脚から、するりと下着を奪い去る。燐の息を呑む声が聞こえたけれど、雪男はもう止まれない。
父はもういないのだ。二人は、ふたりきりになってしまったのだ。
「だから…抱かせて。ねえ、兄さん」
⊂謝⊃
サイトに載せるとなんか読みにくい罠。なんでかしら?
続きは既に完成してるのですが、upする時間がちょっと足りませ…(汗)
暫しお待ちを!
(Pixivより転載)
斎藤千夏* 2011/11/03 脱稿