A*H

雪燐。Valentineネタ!

 

*召し上がれ!*





ふと雪男の目に入ったカレンダーは2月の2週目の金曜日。
端をくわえたまま来る恐怖のXデーに眉を寄せてしまい、食事を用意してくれた燐が不安そうな表情で顔を覘きこんできた。
「どうした雪男。…なんかマズいのあったか?」
「まさか!兄さんのご飯はいつも美味しいよ。そうじゃなくてね…ごめんちょっと考え事してたから」
「そっか。ふーん?」
燐の返答がおざなりなのは、頭の良い雪男の悩みなど自分にとって難しい事に違いないと決めつけているからだ。
燐が手助け出来ないことならこのまま雪男が一人で考えて解決するし、出来ることなら詳しく説明してくれる。これはもう昔からのスタイルだが、最近は特に頼られることなんて殆どないと言っていい。
兄であるくせに頼りない自分に幻滅しつつも、燐は少しでも助けになればと暖かい緑茶を手早く淹れて弟の湯呑に注いでやる。雪男はそれをありがたく受け取って、冷えた空気に微かに身震いした。
広いがその分隙間風も多い旧男子寮は古いせいもあってかなり冷える。しかも暖房器具は電気式のものが602号室にしかない。二人とも着れるものは着込んでいるのだが、燐に関しては食事の支度をしていたのもあってか、両腕が捲られたままだ。
今まで忙しなく動いていたから寒さを感じていないのかもしれないが、雪男が見ていられないのでそっと袖を戻してやって、ちらりと壁のカレンダーに目を向けた。つられて燐もカレンダーを眺める。
特別な予定が書きこまれているわけでもない真っ白のカレンダーだが、健全な男子高校生としてはそれなりに注目イベントである日付が目に入った。
「お、今度の火曜ってバレンタインデーか。お前、昔と違ってモテるようになったもんなー。やっぱ当日は山ほどチョコレート抱えて帰って来るのかもしんねーな。紙袋とか用意しとくか?…あ、勘違いすんなよ!兄ちゃん別に分け前もらおうとか、弟の癖にモテやがって羨ましいとか思ってないからな!!」
「……はぁ〜……」
死に物狂いで手柄を上げて祓魔塾最短記録で晴れて祓魔師となり、とりあえずの命の期限を延ばした燐に対して、兄弟として大切に思うだけではない気持ちに少し変化があってから、雪男は燐へ虚勢を張ることを止めた。しかし燐はそんな雪男の態度に気付いた様子もなく、偶に任務を受けつつもいつも通りの高校生活を楽しんでいるようだ。
弟が自分よりもモテて女の子に好意を寄せられることを羨ましいと思われるより、どちらかと言えば群がる女の子たちに嫉妬して欲しかったのだが、そういう意味での情緒面ではまだまだ幼い燐にはハードルの高い話だろうか。そもそも雪男は燐に気持ちを告げてさえいない。全く脈がないと宣言されているようで、深い溜息が零れた。
「何だよその『わかってねえな』って溜息は!?」
「あ、通じたんだ。ちょっと意味は違うけどまったくもって分かってない。だって兄さん………本当に僕が羨ましい?」
「え、だってチョコレートの山だろ。食い放題じゃね?」
お菓子や甘いものが好きな燐からすれば大量に貰えるチョコレートが羨ましいのかもしれないが、顔も名前も知らない相手から贈られたものを口に運べるかどうかが問題だ。
それが市販物ならまだいい。しかし、こういうイベントにそんな手抜きで済ませる女子は争奪戦に参加する資格さえないと思われているとしか思えないほど、腕に自信があっても無くても気合いを込めたものを作ってくるのだ。
テレビの向こうのアイドルを追いかけまわすように、休み時間ごとに特攻をかけられて隙を見せればコートや制服のポケットに押し込んできたりちょっと席を外した隙に机の中身や鞄の中身を引き摺り出してチョコレートを押し込まれる可能性だってある。
そう説明すれば、夕食の肉じゃがをもふもふと食べていた燐が呆れた顔をして首を傾げた。
「……それは流石に、カジョーハンノウってやつじゃね?」
「自意識過剰って言いたいの?兄さん、去年の誕生日を忘れたなんて言わないよね…?」
「う…ッ!」
心臓を掴まれたように青ざめる燐の脳裏には、『雪男君に渡して!』と鬼気迫る顔つきで追い掛け回された記憶が蘇る。
12月27日といえば冬休みまっただ中だが、特進科の特別授業と赤点者の補講が重なったため双子揃って登校していた。学校自体はとっくに冬期休暇に入っていたと言うのに、何故一般生徒の彼女たちまで登校していた理由は明白で、学年一の秀才である雪男へ(どこから手に入れた情報かわからないが)誕生日と言う特別な日にプレゼントを渡そうと待ち構えていたのである。
勿論雪男が受け取るはずもない。あっさりとあしらわれた彼女たちは、先程雪男が説明したような暴挙を行い、挙句の果てには燐までも追い掛け回したのだ。
一応燐の誕生日でもあったのだが、彼女たちにはそんなもの関係ないらしい。雪男が考えるに、そのうちの何人かは純粋に燐へ贈り物をしようとしていた可能性もあると思うのだが、間違ってもくっつかれると困るのでそんなフォローは全くしていない。あの日の記憶は燐の中でも女子は怖いものとしてインプットされることとなった。雪男的に問題はない。
「アレは、確かに怖ぇな……しかも今度は普通に平日だろ?前のが一部だとすると…うわ想像したくねえ」
「でしょう。だから、今からちょっと憂鬱なんだよね。もう何人かに14日の放課後の予定を聞かれたりしたし…」
「答えたのか?」
「普通に予定があるって答えたよ。14日だって塾はあるんだし。…何もなくてもそう言うけどね」
そんな雪男の疲れた表情に、むう…と行儀悪く箸先を噛んだまま唸りだした燐は突然『あ!』と声を上げて立ち上がりキッチンへと走り出した…と思ったらすぐにまた走って戻ってくる。その手にはスーパーなどで貰ったのかチラシのようなものが掴まれていた。
「なに、どうしたの?」
「これ!最近は逆チョコってのもアリなんだろ?誰からも受け取らないって言って、先にお前から渡してみるのはどうだ?」
燐が雪男に差し出したチラシには大きな文字で『バレンタインフェア』と書かれていて、殆どは女性から男性へ贈られるチョコレートだったのだが、一部に逆チョコなるものの説明が商品と共に書かれていた。
「……はぁ?何それ。あげる人なんていないよ」
しかし雪男には、わざわざチョコレートを用意してまで渡す相手などいない。いや、あげたい相手は一人居るが、まだ気持ちを告げるには早いだろうし、もし雪男が抱える疾しい気持ちに気付かれでもしたら今のように笑ってくれなくなるかもしれない。それは非常に困るのだ。
今の関係まで喪ってしまうリスクを冒すには、まだまだ雪男の覚悟も足りない。
しかし、雪男の葛藤など気付かない燐はチラシを眺めつつ、呑気に続けて喋り出す。
「最近は友チョコとかなんかそーいうの色々あるんだろ?別に好きな相手じゃなくたってさー、感謝のキモチとか込めて渡すのもいんじゃね?」
「………兄さんって偶に的確だよね。しかも大概偶然で」
「おう?もっと兄ちゃんを褒めろ!」
出しっぱなしの尻尾がゆらゆら揺れて、ニッカと笑った燐はやはりどことなく幼い。くす、と小さく笑みを零した雪男は、そうだね、と頷いた。
「チョコと告白がセットのバレンタインデーって実は日本だけだし。感謝っていうのは有りかもしれない」
「えええ?!じゃあ、世界中の男が女の子にチョコレート貰ってるわけじゃないのか…!?」
「ないよ。日本が特別特殊なだけ。世界的に見たら男性から恋人へ花束を贈るのが通例かな。…で、そうだな。僕の明るい未来のために、兄さんも協力してくれる?」
意地を張ることを止めた雪男が気付いたことは、燐はなんにせよ『兄』である自分をとても気に入っていて、雪男が『弟』らしく甘えて見せるのが心底嬉しいらしい。そんな所も可愛らしいと思っているとは気付いてもいない燐は、雪男のお願いにしょうがないなと渋々付き合う振りをして、尻尾だけは素直に動いていることに気付いていないのか居丈高に頷いて見せた。
「し、しかたねーな。しょうがねえから、俺に出来ること何でも手伝ってやるよ。しっかし、中坊だった去年まではお前もこんなにモテモテってワケでも無かったくせになあ…。あれか?コーコーセーデビューってやつか」
「ちょっと違うけど大きく違うよ。まあそれは置いておいて。お願いしたいのはね、兄さんには僕が配るチョコを用意して欲しいんだ。勿論手作りで」
「え」
「材料費は勿論僕が出すよ。毎月の食費で渡してる分じゃ、お菓子の分まで賄えないでしょう?」
正直、高校生の男がやりくりをしているにしては上手くやっている方だろう。雪男とて大金を渡しているつもりはないのだ。1か月間三食をコンビニやパンなどで贅沢せずに抑えたとして精々一人分が賄えるほどの僅かな金額で、燐は育ちざかりの二人分の食事を用意してくれているのだ。しかも、文句の付けようがないほどに美味しいときた。栄養学など知らないだろうが、食べ合わせや栄養のバランスも計算しているはずもないのに絶妙に整えてある。この才能がどうして悪魔薬学に反映されないのか不思議ではあるが、同じように料理の才能はマイナスに近しい雪男が言える言葉ではない。
「いや。そりゃ、手伝ってやりてえけど俺、お菓子とかそういうのはやったことねえぞ…?」
「勿論練習分の材料費も出してあげる。うん、そうだ。明日は休日で学校も塾も休みだし、久しぶりに一緒に買い出しに行こうか。本屋にも寄ってレシピ本を買うのもいいね。だからお願いだよ兄さん」
「うぐ…っ!」
『弟』からお願いされるのにとても弱いと知っている雪男は、こういう勝負に実は負けたことが無い。燐にとって幾ら理不尽な願いだとしても、雪男がお願いさえすればそのほとんどを叶えようとしてくれた。
今回も、案の定。
「…わ、わかった!兄ちゃんにまかせとけ!うんとウマいの作ってやるからな!!」
「うん、楽しみにしてるね」
笑顔で返した雪男にまた大きく頷いて、無難にチョコが良いかそれとも別のものがいいかとすっかり夢中になっている。燐の頭の中では既に、その手作りされた物がどういう意味を持って相手に渡るのか、その趣旨など吹っ飛んでいるのだろう。
まだ着手さえしていないが、この調子ならば燐の手から作られるお菓子は最高の味になるに違いない。
これなら上手くいきそうだ、と雪男は無邪気に手振りを加えてテンションを上げる燐に頷いて返しながら、内心で組み立てた計画を実行する算段を考えていた。

***


〔いーいにおいだなありん!おかしか?〕
「おう、チョコクッキーだ!焼き立てはまだ熱いから、先に焼いたやつ食ってみるか?」
〔くう!!〕
バレンタインデーを二日後に控えた日曜日。
昨日の土曜日には二人揃って許可を貰って出かけて、必要な材料やラッピング素材を大量に仕入れてきた。
しかしながら、学園から少し離れた街を狙ったと言うのにどこもかしこも鬼気迫る女性たちの波が出来ていて、たかがお菓子の材料を揃えるだけで一日を使い果たしてしまった。
あの波の中に男である二人が飛び込むというのになかなか勇気が必要で、燐は一度この作戦に降参しかけたのだが、何故か雪男は譲ってくれず、挙句の果てには一人でも買いに行くとこぶしを握りしめていた。
任務に出かけるより緊張した顔つきで気合いを入れる雪男だったが、食べ物にてんで疎い彼が一人で女の群れに飛び込んで一体何が出来ると言うのか。『大丈夫だよ。僕は地味で人ごみに紛れるのが得意だから』とか言うが、だったら学校でもそうしろよと燐は言いたい。
頭一つは確実に飛び出る長身で女性の波に紛れられる訳がない。寧ろ容姿に気付かれたら最後、飢えた獣に群がられて襲われると思い立った燐も、弟を守るために気合いを入れて立ち上がり、結局は二人で女性陣に大注目を浴びながらも材料を買い揃えたのだった。(勿論視線は厳しかったが襲われることはなかった)
「でもあれは地獄だった…虚無界より怖ぇ場所なんじゃねえか」
〔そうなのかー?〕
「でも、頑張ったからな俺たち!どうだクロ。ウマいか?」
〔ウマいー!!りん、おかしもつくれたんだなー!すごいなー!〕
「へへ、さんきゅ!」
食べやすいように一口大に崩したクッキーをクロは美味しそうに頬張っている。クロの良い反応に、クロを見つめていた燐の表情も嬉しそうな穏やかなものになる。
慣れないお菓子作りで一番苦労したことは、細かな分量を量って作らなければならないことだ。普段の料理ならば目分量とカンで調節するものも、初めてならばそうもいかない。
雪男は宣言通り本屋にも寄ってお菓子作りの本を買ってくれた。どれが分かりやすいだとかこれが良いだとかそういう会話をしている二人のことをまたしても色んな視線が見つめていたが、あんな荒波にもまれた後だ。二人とも、もう誰がどういう視線を向けて来ようが気にすることを止めた。何か一つ大きく成長出来た気がする。
ついでに欲しいものがあると言った雪男が離れている間、燐はお菓子作りの他にも普段の食事の幅を広げようと中華料理のレシピを眺めていたのだが、雪男が持ってきた数冊の参考書と共にそれも買ってくれた。参考書は放置したままだが、レシピ本は14日以降にじっくりと眺めるつもりである。とりあえず今優先すべきことは作ってみることだった。
日曜日なのに朝から緊急の呼び出しを食らった雪男は、医工騎士としての任務で出かけているために留守だ。だが、出て行く前に薬学で使っているものだと、ビーカーや計量カップや電子計量器などきっちりと揃えて行ってくれたので分量を間違えることもなく、最初に焼いたものから失敗することはなかった。ちなみにビーカーや計量カップは煮沸消毒してから使っている。扱うものは大抵ハーブなので人体に害はないらしいが、雪男からも言われていたのでその辺に抜かりはない。
〔でも、なんでくっきーなんだ?ばれんたいんはちょこなんだろ?しろうがいってた!〕
「まーそうなんだよな。でもチョコだけだと量作るには高くついてしょうがねえんだよ。だからまあ、クッキーならアレンジも出来るしいいんじゃねえかってことに落ち着いたってワケ」
一応、メインはチョコレートクッキーだ。一緒に買ってきた型抜きで形を抜いたり、丸めて輪切りにしたりと形は様々。焼き上がったものから粗熱を取り、十分に冷めた所で十枚単位で透明な袋に詰めて光る針金で口を縛りラッピング。
小さいものをたくさん作ればいいのかと言った燐に、それは手間だろうからとこれでいいと言った雪男がどういう風に女子に渡すのかわからないが、焼いているうちに詰め込む作業は慣れてくると意外と楽しい作業になってくるものだ。
雪男が希望する数に達するにはまだまだ焼いても終わらないだろうが、実際燐は楽しんでこの作業を行っていた。
最初はオーソドックスなプレーンのバタークッキーから、チョコを混ぜたものに切り替えて本番を試したり、今ではドライフルーツやチョコチップ、紅茶の茶葉を混ぜたものや抹茶、それらでマーブルにチャレンジもした上で手作りジャムを使ったものまで出来あがりつつある。
嬉しいことに、寮の厨房には大型のオーブンもついてるから、一回目よりは二回目、二回目よりはと徐々に腕を上げて、食堂は甘い香りでいっぱいだ。
「良い匂い…すごいね兄さん。もうこんなのも作れるようになったんだ」
「おうおかえり雪男!遅くならなくて良かったな」
〔おかえりゆきおー〕
部屋にも寄らずにまっすぐ食堂に入ってきた雪男は、擦り寄るクロを撫でて抱き上げながら広い食堂のテーブルに並んだラッピング済みのクッキーや、冷ますために置いてあるそれを眺めて感嘆の声を上げた。
燐もラッピングの手を止めて、いいタイミングで焼き上がりの音を立てたオーブンから一枚取り出す。
「熱いから気を付けろよ」
「うん。あ、でも僕まだ手も洗ってない」
「腹は?」
「少しだけ」
「じゃあ休憩がてら試食でもするか?着替えて手洗ってこいよ。ついでにうがいも忘れんな」
「はいはい」
悪魔祓いの任務ではなかったからか、雪男もそんなに疲れた様子ではなかったがそれでも甘いものを食べれば少しはスッキリするだろう。
食堂に漂う甘い匂いに、自分の得意分野ならばもっともっと頑張れるんじゃないかと、作れる料理の幅を広げる楽しさを見出してしまった。他にもレシピがあればもしかしたらケーキなどでも作れるかもしれないと自画自賛したくもなる。
暖かいコーヒーを二人分いれながら、雪男にも美味しいと言って貰えればいいなと、燐は小さく笑った。


***


練習として焼いた分も合わせて、燐は一体自分がどれだけクッキーを作ったのかわからなくなりそうなほどの数を焼ききった。甘い匂いが移ってしまうほどには。
月曜日の祓魔塾では、燐から漂う美味しそうな匂いに、志摩やしえみにあれやこれやと言われたのだが、当日まで秘密にしていた方が驚くし喜ばれるよという雪男の助言に従って何も言っていない。
感謝の意を込めて彼らにもあげたいと言ったのは燐なのだが、それなら僕から配らせて、と雪男が言ったのだ。材料費を出したのは雪男であるのだし、二人からということで間違いはない。燐も納得して、内心で楽しみにしてろよ、と笑って誤魔化した。
出来上がったクッキーの数はそれは大量なものになったが、そのクッキーが詰まった紙袋をどうやって学校に持ち込むのか燐は不思議でならなかった。が、雪男は塾の講師室に仮置きし、こっそりと学校と行ききして運ぶという方法をとったらしい。塾ならばどの扉からでも繋がるので、開いた扉を閉めることさえしなければ元の位置に戻ってくることもできる。とは言うが、誰にも見つからずに行き来することはこの日の雪男にとって難しいことであるだろうに、着実に燐手製のクッキーは色とりどりの箱や袋を抱えた少女たちの手へと渡っていく。
「あ、奥村くーん!」
「これ、受け取って下さい!」
大挙して押し寄せる彼女たちの前に、紙袋を持った雪男が立っていた。その中身は他の女子生徒から貰ったチョコレートが入っているかと思いきや、いつもの穏やかな笑みを浮かべた雪男はその中からいくつか透明な袋を取り出し、手前の数人に手渡した。
「いえ、今回は僕から皆さんに。余り数がありませんので、皆さんで食べて下さいね」
きゃあ!と嬉しそうな声を上げたのは、受け取った女子だ。一袋に十数枚入っているとはいえ、一人一枚クッキーが渡るか渡らないかくらいの数ではあるが、運が良ければ二枚食べられるかもしれない。
「え?!」
「うそ!?」
「しかも手作り…じゃない?これ!?」
「ええ、皆さんにはいつもお世話になっていますから。僕の大切な人が丹精込めて作ってくれたクッキーです。とても美味しいですから、どうぞ召し上がれ」
口に合えばいいと言うのではなく美味しいからと断定されたその言葉は、この味を知っているから言えることだ。
そしてこれは雪男にとって『大切な人』が作ったものだという。にこにこと毒気のない表情でさらりと爆弾発言をかました雪男が美味しいと思うのはこのレベルの味なのだと、普段は家政婦やお抱えコックが作った料理を食べて自炊などしたこともないお嬢様たちは絶句するしかない。
慣れない手付きで手作りを頑張ってきた少女たちだが、たかが一朝一夕の努力で、有名パティシエ顔負けのこの味に敵うはずもなく。
にこやかな笑顔の言外で『この味以上で腕に自信があるなら勝負してこいや』と言われてる気分になって、明らかに勝てる気のしない雪男の『大切な人』と、戦わずして誰一人が同じリングへすら上がれない。
誰にも渡されることのなかったプレゼントと、食べかけの美味しいクッキーを手に、『では、僕は急ぎますので』と去って行った雪男を引き留めることさえできずに、彼女たちは茫然と見送ることしか出来なかった。


***


「先生聞いたでー。罪作りなお人やわ」
「はい?何がです?」
「いややわー。すっかり噂ですえ。チョコ持って来た女の子たちに、感動するほど上手い手作りクッキー配りはったんですって?」
予想以上に効果のあった先制攻撃は、バレンタインというXデーを平和なものに変えてくれた。
確かに準備は大変だったが、雪男としても、まだ告白さえしていない『料理上手の恋人』の存在をちらつかせ、見せびらかせた気分を味わえてすっかり機嫌が良い。対悪魔薬学で今日の授業は終了だが、教本を閉じた雪男に志摩がそう話しかけても快く話に乗ってくる位には。
挙句の果てに、授業中ずっと惰眠を貪っていたを優しく揺り起こす始末だ。この兄弟は兄である燐が一応の資格を貰ったと同時に少しずつ周りを顧みない仲睦まじさを見せつけることが増えてきた。(余談だが、祓魔師の資格を取った燐がまだ塾に在籍しているのは、候補生でありながら上級悪魔を祓える祓魔能力を買われての特別資格であるために、圧倒的に足りない知識は未だ塾に通いつつ学ぶことが条件の一つとなっている)
燐の態度が変わったと言うより、雪男の態度が軟化したとでもいうべきなのだろうか。そんな雪男に燐は違和感を感じてもいない様子で、もしかしなくともこの近過ぎる距離感が双子の正しい距離だったのだと思い知らされる。
「ああ、流石志摩君。耳が早いですね。おおよそ予測は付いているでしょうが、兄さんの手作りですよ。勿論皆さんの分もあります。ほら兄さん、起きて」
「やったー!ありがとお奥村君!」
「…う?お、おお?」
机に広げられたクッキーを早速手に取り食べだした志摩と、一口食べて感動したように目を輝かせるしえみが、寝起きでぼんやりしている燐に掴みかかる勢いで感想を述べた。
「すごい!燐!!美味しいよ!」
「ほんま惜しいわー!なんで奥村君男の子なん!…こないな味、胃袋掴まれん男おらんで…!」
余り甘味に興味のないらしい勝呂も、子猫丸に勧められるまま口にして目を見開く。こちらを気にしながら帰る用意をしていた出雲も、しえみに呼ばれて一枚手に取った。
宝に関しては雪男が招いた時点で何も言わずにもくもくと食べ続けている。よほど口に合ったらしい。
「ナイショにしとけっていうからさー。ウマかったなら良かった」
「甘い匂いってこれだったんだね。わたし、おばあちゃんのハーブクッキー大好きだったから、何度も挑戦したんだけどいつも上手く焼けなくて…」
「なら今度一緒に作ってみるか?」
「…うん!」
「癒されるわー…奥村君男の子なのになんでこない癒されるんやろー…」
「頭沸いとんちゃうか」
「志摩さんがこうなのはいつものことですよ、坊」
ほわほわと花を飛ばして語り合う燐としえみの様子を眺める志摩と、勝呂と子猫丸がフォローなのかよく判らない言葉で会話をしている傍で、次々と宝の胃の中へ消えたクッキーを視線で追って、出雲が雪男に向って問い掛ける。
「…先生、もうないんですか?朴にもあげたかったんですけど」
「すみません、神木さん。学校の方で予想以上に配ることになってしまって、もう…」
「あぁ?!もう一枚もない!?」
気付いた志摩が声を上げたと同時に全員の視線がクッキーの残りかすを見つめる。満足したらしい宝は無言のまま既に帰宅していない。
勝呂までも惜しいという表情を浮かべたのを見て、燐も機嫌よく尻尾を揺らしながら笑った。
「そんなの、また作ってやるよ」
しかし、輝いた塾生たちの表情は次の雪男の言葉にあえなく沈む。
「兄さんが成績上げたらまた材料費も工面してあげる」
燐とて祓魔師として依頼があれば手当を貰うことは出来る。が、その時には必ず雪男かシュラが同伴していないとダメだと言うこと。青い焔を操る悪魔と任務はごめんだという祓魔師たちが多い事もあって、どうしても燐でなければならない時以外はあまり呼ばれることもないのが現状だ。
メフィストからすれば折角使える力を使わない彼らに『勿体ない』と言わざるを得ない状況であるのだが、今はまだ燐を理解してもらうために我慢の時だ。仕方のないことでもある。
「……ま、期待するな」
自分の薄給で日々の生活をすることさえきついと言うのに、材料費にかかるお金はバカにならないのだ。
あっさりとあきらめた燐と、こんな所で大黒柱を主張する雪男に志摩としえみのブーイングが飛ぶ。
「雪ちゃんずるーい!燐のごはん毎日食べてるのにー!」
「そうですよ!お菓子まで独り占めですかー!?」
こほん、と一つ咳を漏らした雪男は当然とばかりに笑顔を振りまいて、燐の唯一の家族である権利を主張した。
「当たり前です。では、皆さん気を付けて帰って下さいね」


***


「あれ、兄さんまだ起きてたの?」
14日夜。後もう数分で日付が変わる時間に、風呂上りの飲み物を取りに来た雪男が驚いた声を上げた。
燐はもう眠っていると思っていたので、キッチンの高い戸棚に隠しておいたものを取りにきたのだ。深夜のうちに回収しようとしていたので、さてどうしたものかと思案する。
いつもの燐ならばもう布団の中でぐっすり眠っている時間だ。腹を出して寝る兄のベッドを整え、暫く平和な寝顔を眺めてから作業に取り掛かる雪男としては、少しだけ誤算だった。
眠っている顔も幼くて可愛いけれど、起きているのは格別だ。雪男の声にキッチンの向こう側で驚いた声を上げた燐は、大慌てで振り返って時計を見上げる。
「雪男…!?え、あ、まだ今日だよな。…お前、今日はもう寝るのか?」
「え?ううん、報告書とレポートと、今日の小テストの採点と、一人しかいない赤点者向けの課題プリント作る予定だけど」
「ぐ…っ」
言葉に詰まったように唸る燐だが、こんな時間にエプロンを付けている。明日の弁当の準備だとしても、少しかかり過ぎではないかと思った雪男だったが、何かを諦めたようにはあ、と溜息を零した燐は気を取り直したのか、雪男の前にそっと皿を置いた。
「え、…これ、兄さん?」
「夜食にでも食えよ。夜中の甘いのは太るって言うけど、お前普段から相当動いてるし、まあ平気だろ」
夜なので、薄めの珈琲に暖かい牛乳を混ぜたカフェオレをいれながら、燐はどうぞと差し出したもの。
「…チョコレートケーキ?」
「甘さは抑えた。フォンダンショコラっていうケーキらしいぜ。クッキーの残りの材料で作ったもんだけどな。温かいケーキだから冷める前に食っちまえ。お前だって甘いの嫌いじゃないもんな。兄ちゃんからで悪いけど、せっかくのバレンタインでゼロってのも寂しいしな!」
「兄さん…」
想い人から、突然のチョコレートだ。ぐらっとこないわけがない。勢いに任せてキスしてしまいそうな感動をなんとか押し留め、柔らかく抱擁するだけに留める。
「お、おい雪男?」
触れ合いは数多くしてきた兄弟だけれども、この年になって抱きつくなんて接触は終ぞなかった。
言葉に出来ない感動を伝えようと抱き締めたはいいが、雪男は触れた身体の暖かさに更に感動して、少し視界が潤む。見せたくなくて余計に強く抱きしめれば、燐が笑いながら痛い痛いと声を上げた。
「もー、甘えただなー雪男。これからまた頭使うんだろ?なんだっけ、甘いのってアタマに良いって前に」
「…うん、脳の栄養は糖だけだから。…ありがとう兄さん。本当に嬉しい」
「へへへ…!」
すり、と頭を擦りつけて燐も雪男を抱き締める。うず、と男らしい欲が身体の奥で疼いたが気付かなかったことにして、離れがたくも一刻も早く離れないとマズイとばかりにそっと燐の身体を引き離し、雪男もキッチンの中に入り込む。
「雪男?」
燐があまり使わない戸棚を開けて、そこに仕舞い込んでいたものを取り出した。
「…クッキー?しかもこれ、俺が作ったやつじゃねえか?なんでこんなところに」
雪男が女子生徒にばら撒いたものと同じラッピング袋だけれど、平たい針金を捻るだけの簡易包装であったのに比べて、仰々しくも青いリボンが結ばれている。そして、その中身はハート型のクッキーしか入っていない。
「え、お前これ。わざわざ抜いたのか?!」
「前にも言ったと思うけど、誤解を招きかねないから、お断りするためのものにハートの形は入れちゃダメ。だから、その気持ちは僕が貰って、兄さんに返すことにした」
ハート型の型抜きを買う時にも一悶着したのだ。しかし、セット売りになっているものでハート型が入っていないものなどない。雪男が気にしていたから、燐だって練習の時にしか使わなかったのだ。しかし、練習分を入れてさえ足りないと言わしめた雪男に当てつけるつもりで混ぜたつもりだったのだが、こんな風に返ってくるとは思いもよらなかった燐だ。
「最初はね、普通に市販のものを買うつもりでいたんだよ。でもやっぱり他の何より兄さんの手作りが美味しいんだ。僕が手に入れられる最高のものが、これだった」
大事なものをそっと抱えるように抱きしめた後、燐へと差し出す。
「いつもありがとうの感謝と…大好きだよ兄さん。僕からの気持ち、受け取って?」
「ゆきお…俺も!俺も、だいすきだぞ!」
感激のあまり、瞳を潤ませてしがみ付いて来た燐だが、この抱擁はどこまでも家族愛でしかない。
嬉しいけれど、少し寂しくもあり、けれどやはり大好きな暖かい兄に抱き締められて嬉しくないはずがない。
これ以上起きていたら翌朝の燐が寝坊すると分かっていても、雪男は抱擁を解くことも出来ずに暫しその幸せな時間を堪能した。

 

 

 

 

 

 

 

 


そして数年後。


「はいあーん」
「、ん」
小さいけれども一つのチョコケーキを二人で仲良く食べている。
あのバレンタインデーから九年もの月日が流れた同じ日の夜、寒い屋外の空気とは違って、暖かいベッドの中で二人、衣服を脱ぎ捨てた恰好のまま一つのフォークで小さいケーキを分け合って食べている。
あのバレンタインデーの日以来、雪男は燐以外からチョコレートを貰うことはなくなった。
最初は受け取って貰えなかった悲しみと、逆に渡されたクッキーの余りの美味しさに自信を無くした少女たちが気落ちして学園全体が沈みそうな薄暗い雰囲気になっていたものだが、年を重ねていくうちにその美味しさの虜になって、貰えるのを楽しみに待ち構える者たちが続々と増えていた。
自他ともに認めるお菓子好きの理事長兼正十字騎士團日本支部長がこの現状黙っているはずもなく、出資額が増えたお蔭もあって配る量も増えた。今では、顔見知りの祓魔師たちや雪男の通う大学の生徒たちなどからも絶大な支持を受けている。
メフィストが協力してくれたことで、バレンタイン前の数日と当日は双子に依頼が行かないように調節までしてくれる様にもなった。勿論、作ったものは全種類、メフィストの所へ差し入れに行かねばならないのが難点と言えば難点だが。
「みんなすっかり兄さんに胃袋掴まれちゃって…。僕の事なんてもうどうでも良いみたい」
「へへ、そっか」
「なんで嬉しそうなの。僕は不服なんだけど」
「モテなくなって寂しいか?」
「それ別にどうでもいい。気に入らないのは、兄さんが作ったものを僕以外の人が食べてるってことだよ。兄さんの味は僕だけが知ってればよかったのに」
雪男が持ってくる絶品のお菓子を誰が作っているのか、知っているのは理事長と、塾同期の彼らだけだ。出雲に至っては宝に食べられてしまったのが心底悔しかったのか、しえみと燐がハーブクッキーを焼く約束をしている中に押し掛けて参加し、雪男が帰宅した時には朴と連れ立って一緒にキッチンに立っていた彼女に大変驚いたものだ。
以来、彼女たち三人は時折燐に料理を習いに来ることもあるらしい。
「…まあ、そう言うなって。俺は現状満足してるぜ?」
「なんで」
「だって、結果的にお前を狙うやつが減ったし。俺の料理で性別では絶対に負ける女の人とかに勝てるなら、こんなに嬉しいことはねえよ」
人間だからこそ、青焔魔の血を継いでいる雪男ではあるが、燐のように子を残すことに制限を掛けられているわけではない。だからもし、己の血を継いだ子供を雪男が欲しいと思った時、燐にしてやれることは黙って手を引くことだけだ。
だけれども、ただ料理したりお菓子を作ったりするだけで雪男に近づく女性たちを牽制できるなら、やはり燐の中にある独占欲が大いに満たされて安堵するのも確かだ。
「兄さん…」
嬉しそうな声を上げた雪男だって、燐を声高に見せびらかすことの出来る恋人ではないと分かっているのだ。けれど、この日ばかりは恋人自慢が出来る。高校時代のように恋人がいる振りではなく、正真正銘身体も繋げた最愛の恋人のことを自慢できるのだ。
「雪男は、俺のもんなんだろ?」
「そうだよ。勿論兄さんも僕だけのものだから」
くすくすと額を擦り合わせて笑い合う二人の距離がゼロになり、甘い味のするキスが重なる。
「そーだなー。俺の味、はお前しか知らねえわけだしな」
ぺろ、と舌を出して笑う燐が、何を言いたいのかわからない雪男でもない。
「…じゃあ、おかわりしていい?」
「ケーキはもうねえぞ?」
食べきった皿とフォークは既にベッドサイドのテーブルに置かれている。他に燐が作ったお菓子があるわけでもないベッドの上で、雪男は燐の身体をシーツに組み敷いたままそっと告げた。
「いいよ。目の前にはとびきり甘いフォンダンショコラがあるから。暖めてあげるから上手に溶けてね?」
「ハハ、言ってろー。……残さずに食えよ?」
「当たり前だよ。兄さん、頂きます」
「おう、めしあがれ!」

ハッピーバレンタイン!



END

⊂謝⊃

バレンタイン雪燐ネタです。連載物を始める前に短いのを練習するつもりで習作。
料理出来ない身としてはお家に一人兄さんが欲しい…なんて贅沢言わないから手料理食べてみたい。(笑)
(Pixivより転載)

斎藤千夏* 2012/02/12 脱稿