*軌 跡*
「・・・というわけでして、今後もこの近辺は警戒が必要かと思われます。続けて東方の様子なのですが」
「シュウ。・・ごめん、ちょっと良いかな」
執務室にて近隣の報告を俯いたまま聞いていたオミは、ふと宰相の言葉を遮って視線を上げた。
「はい、何でしょう陛下」
「今の話を聞いていると、この城の近辺やミューズ、グリンヒルなどの大きな街や村は随分と暮らしやすくなっているみたいだけど」
そこで一度言葉を切ってオミは椅子から立ち上がり、テンプルトンの置いて行ったアルジスタ国の地図を指し示した。
「国の中心地から少し離れたティントや旧ハイランドは未だ隣国の脅威を受け続けている・・・そうだね?」
「その通りですが、各市町村の警備は万全です。小さな諍いや争いは数度あったものの、この国は随分と平和になったことには変わりありませんよ」
狭い土地を奪い合い、人々がせめぎ合っていたあの頃と比べれば、一つの王の元に纏まったアルジスタ国は穏やかで暮らしやすい国となったことは事実だろう。
「でも・・・この世界から戦いが無くなった訳じゃない」
「陛下・・・」
平和になったこのデュナンの地。各地で起こる小競り合いに加え、隣国との境目にある市や村は、未だ平和という言葉を感じ取れるほど平穏な時を過ごしてきたわけではない。
大国トラン共和国との国交がまだ続いているとはいえ、国外からの攻撃にはこの国はまだまだ弱かったのだ。
「シュウ。この地は人々が暮らすには丁度良い気候で、水源の湖も美しい豊かな国だ。けれどどうして、他国が大手を振って押しかけてこないのか。・・・わかってるよね」
「・・・えぇ。どんな褒美を前にしても、わざわざ負けの見えている戦いを挑む者が居ないからでしょう」
出来たばかりの脆い国である今でさえ、大規模な侵略は今のところ起きていない。
それは、オミの持つ紋章に意味があるのだろう。
「そう・・・。それだけ強い力なんだ・・・これは」
今でこそ盾の癒しの力のみを使っているが、もう一方の剣の力を使ったことは、後にも先にも、獣の紋章を拡散させたあの日のみだ。
けれど、あの日でさえ紋章は一つとなっていたわけではなかった。
その不安定な状態の力ですら、同じ真の紋章である力を打ち消してしまったのだから、並大抵の力では太刀打ちできないと見越しての傍観なのだろう。
この世界の神話にあるように、世界創世から存在するすべての始まりの力が、今オミの右手にある『真の紋章』なら尚の事。
けれど、すべての真の紋章の元となった剣と盾を・・・最強の守る力と戦う力を秘めた紋章はあまりにも強大な力を宿していて、魔力値の高いオミですら年月が過ぎてもまだ上手く扱うことが出来ないでいた。
「でも・・・僕がこの力を制御出来ていないなんて知られてしまったら。何時何処の国々がアルジスタを狙ってくるか分からない。分からないけど・・・」
争いが起これば、人が死ぬ。
折角平穏な暮らしを取り戻した国民の心を、また哀しみで染め上げてしまう。
「・・・もう、この地で大きな争いは起したくないんだ」
「陛下・・・」
広い広い地図に手を重ねたまま、オミは暫く動きを止めた。
もう十年も経ったと言うのに、小さな傷跡はいまだちりちりとオミの心を中から蝕んでいく。
はっきりと目には見えない程度の傷だけれど、長引く痛みを堪え続ける為には縋りつける支えが必要だ。
けれど、オミにはそんなものなど無い。唯一の支えすら、もう長すぎるほどにオミの傍から離れてしまっていた。
それでも国の為に死力を尽くし、民の為に心を砕いて来たオミは、立派過ぎるほど王としての責務を果たしてきたのではないだろうか。
地図に触れたまま黙って考え込むオミの様子を見て、シュウは小さく問い掛けた。
「・・・どう、なさりたいのですか?」
「え?シュウ、いきなり何を・・・」
「これは、何かお考えがあってのお話なのでしょう?・・・陛下は何をなさるおつもりなのですか?」
建国して十年。
オミは一度として自分のわがままを言う事がなかった。
的確な意見は全てこの国に暮らす人々のためのことばかり。
オミ自身の望みなど、そう考えて・・・オミが守りたかった小さな世界の平和は、姉と親友がいる世界の平和はもう何処にも無いのだと気が付いた。
今更だが。・・・本当に今更気付いたのだが、昔からオミがシュウに甘えた事など一度も無かったのだと。
もうこの国にはシュウを含め、昔からのオミを知る者は殆どいないが、その中の誰にも弱さを見せないのがオミなのだ。
だからこそ、オミが抱える痛みを誰も知らずに、彼を『強い』と称えるのだ。
彼が、本当は傷付き易く脆い『人間』と変わりないと言う事すら忘れて。
未だに塞がりきらない傷を負ったままの子供を、本当のオミを知らない者達の中に閉じ込めるように玉座へと座らせているのだから。
そしてそれは、真の紋章の呪いによって老いを知らないオミにとっては、何時までも続く時間なのだ。
終わりなど無い拘束。それは余りにも、すべてを犠牲にしてきたオミに対して酷過ぎるだろう。
シュウは、見た目こそ変わらないが、無理矢理大人になることを強制させてしまった少年王を前にして、小さく苦笑を浮かべた。
「王だからと、この国を統べる者だからととやかく言う気は毛頭ありませんよ。・・・もう、何かを決められているのでしょう?」
オミが何を言おうと、シュウはもう止める気など無かった。まして国王の座を降りると言われたとしても、黙って頷くつもりで。
シュウの言葉を聞いてオミも少し驚いた様子だったけれど。
これ以上縛り付ける気はないというような雰囲気を読みとったのか、真っ直ぐに顔を上げてオミはシュウに告げた。
「もう、随分と前から考えてはいたんだけれど・・・そろそろ、この城に僕は必要ないんじゃないかなって」
「それは、王の座から退く・・・ということですか?」
付き返された問いにオミは小さく首を振って、そうじゃないと告げる。
「もちろん僕以外に王となるべき人がいるなら、僕はいつでも辞退する。でもまだ国は不安定で、統治する名前が必要なんだと思う」
他国を牽制する意味を持ってしても、『始まりの紋章』を宿す王の名前の威力は偉大だからだ。
「だから、王としてこの国を守り続けることは止めないけれど・・・僕はもう少し自由に動いてみたいんだ」
城の中が不自由というわけではないのだが。
元々、他人に傅かれて過ごす生活は、オミには向いていないのだろう。
真っ直ぐにシュウを見つめるオミの瞳は強い。人を惹き付けるその瞳から視線をそらせなくなりながら、それでもゆっくりと言葉を捜すようにオミへと問い掛ける。
「・・・この国から出ることは?」
「あるだろうね。でも、何かの時には必ず戻ってくる。それは約束するから」
統治された後の町々を歩いて廻ったのは、王としてであって、市民の目から見える光景とはまた違うものばかりであった。
それも多数の護衛に周りを囲まれて、見えるのは足元の石畳と、民が上げる王を称える多数の声のみ。
そんなもので、町々の本当の姿など見えるわけが無い。
「・・・それに、城に閉じ篭っていてもこの力が使えるようになるわけじゃない。紋章に頼る気はないけど・・・またあの獣の紋章のような力が暴走した時の事を考えたら、この紋章を使えるようになっていても損はないと思うから」
意思の篭った視線は強い。
オミほどの心の強さを持つ者は特に。
元々オミの意見に反対する気など無かったが、いざ言われてしまうと寂しくもある。
シュウは苦笑を浮かべて、それでも若き王の意向を受け入れるように、静かに頭を垂れた。
「仰せのままに・・・」
***
それから、数日が過ぎた。
オミはあの日にでも旅立つつもりでいたようだったが、それだけはとシュウが止めたのだ。
理由はただ一つ。
幾らオミが相当な武術の手練れとはいえ、一国の主を一人で出歩かせる訳には行かない。
とはいえ、自由に動きたいというオミを兵で囲んでしまっては、城を出る意味がないのはまた同じこと。
護衛をつけるにしても一人か二人が限度だろうが、共に行動しながらも自由に動き回れる相手といえば、それはそれは困難を極めた・・・かに見えたのだが。
「お待たせ致しました。運良くこちらの近くに戻って来ている時でしたので、そう時間も掛からずに呼び戻す事が出来ました」
シュウは元々、オミに付き添わせる護衛に見当をつけていたらしく、その人物が城に戻るまで待って欲しいと言う事だったようだ。
オミとしてはその気遣いさえも断って一人で出て行きたい気持ちも山々だったが、わがままを聞いてくれたシュウに対してこれ以上困らせたくないのも事実。
仕方なく、会うだけ会ってみようという事になって、この数日を旅支度を整えるよう過ごしてきたのだけれども。
他人が一緒ではあまり大きく動いて捜す事も出来ないだろうと、オミは小さくため息を零した。
「・・・会わなきゃ、いけないよね」
けれど、声には出さないオミの心情など伝わるはずも無く、オミの問いかけにただ頷くシュウ。
「申し訳ございません。お手数ですが、暫しお時間を下さいませんか?」
「分かってる。・・・すぐに行くから、待っててくれるかな」
「では、謁見の間にてお待ちしております」
頷いたオミに一礼を返して、シュウは部屋を出て行く。
今のオミの服装は王としてのものではなく、昔着ていた胴着に少しだけ手を加えたような軽装だ。
旅装にしては多少物足りない気もするが、動きやすければそれで良いということで作り変えて貰ったのだけれど。
「・・・謁見、か」
どのような格好をしていても、この城に居る間オミは王以外の何者でもない。
ましてや、これから共に過ごすだろう相手を前に王として会うのならば、これから先もその相手に王として接しなければならないのかと思うと、少々気が重かった。
「・・・じっとしていても仕方ないか」
折角シュウが揃えてくれた護衛なのだ。
オミは今一度王としての意識に切り替え、綺麗に整えられた部屋を後にした。
***
「待たせたね。それで、護衛というのは・・・」
玉座の後ろから出て視線をシュウに向ければ、どうしてかこの場に居るのはオミとシュウと、顔の見えない一人きりだと言う事に驚いた。
例えどんな相手が会いにこようとも、オミの傍に衛兵が居なかったことなど一度も無い。
それは、昔の仲間であった者達が訪ねて来た時でも、関わらず護衛はついていたというのに。
「お待ちしておりました、陛下」
「シュウ。・・・その人が?」
「えぇ、彼こそ陛下の護衛に相応しいと思い、呼びつけた者にございます」
頭から外套に包んだ旅装を解かないままの姿から見て、本当に戻って来たばかりであることは目に見えて分かった。
けれど、玉座から遠い扉の傍に居る人物の顔はオミの位置から良く見えない。
あまり体格の大きな者ではなく、すらりとしなやかな動きを見せる体躯にまさかと思い当たるが、すぐにありえないとオミは小さく首を振った。
「では、挨拶を」
シュウの声に反応するように、彼が少し古びたマントを頭から降ろし、露になった衣服に彼がこの国に属する者なのだと言うことは見て取れた。
そしてそのまま視線を上げて、オミの瞳は驚きに大きく開かれる事となる。
深紅の長衣。けれども、胸にアルジスタの徽章が縫い込まれた衣服を身に纏い、玉座の元まで歩いてくる人物の顔から目が離せない。
十年の月日。
けれども、お互い何も変わるところの無かった十年間。
忘れることさえ出来ず、ただ想い焦がれてやまなかったこの十年の月日。
「・・・この足で、この目で。十年の月日をかけて眺めて来た全てを持って、陛下にご案内して差し上げたいと馳せ参じました」
広い謁見の間に響く、懐かしい声。
「・・・っ・・」
それだけで、透明なガラスが突然曇るように、オミの視界を遮った。
玉座の下まで近寄った足音は止まり、声を忘れて凝視するオミに向かって、柔らかく言葉が降り注ぐ。
「腕にも多少の自信がございます。陛下の御身は我が身全てをかけてお守り致しましょう。此度の件、どうか陛下の旅路を導く者として供に行く事をお許し下さい」
「・・・どう、して・・・っ」
何を聞きたくて問い掛けたのか、オミにも分からない。
けれど、答えを求めた問いではないと気付いていたのか、相手もその問いには答えず、ただ静かに腰を折って頭を下げた。
「・・・もし、陛下のお許しが戴けるなら。もっとお傍に近付いても?」
同時に、跪いて頭を垂れていた彼の視線が、ゆっくりとオミを捉える。
蒼く・・・誰よりも鮮やかに深い瞳に見つめられて、オミは自分の立場も忘れ玉座から立ち上がった。
動き出したいけれども、何かがオミを引きとめた。
本当に彼なのかどうか、自分の望みが具現化した幻なのではないかと・・・疑ってしまうほどに彼の態度はよそよそしい。
そんなオミの態度を読み取ったのかどうか、彼はオミを見つめたまま静かに立ち上がり、静かに手を差し伸べる。
「・・・いや、違うな。家柄や肩書きに左右されず、ここ辿り着くまで随分と待たせてしまったけれど。・・・今度こそ、この手を取ってくれないか?」
「っ・・・!」
「おいで、オミ」
誰にも呼び得ない優しさと想いを持って紡がれたオミの名前。
久方に聞く自分自身の名に、オミは溢れる涙を堪えきれずに、広げられた腕の中へと飛び込んだ。
「・・・セフィリオ・・・ッ!」
触れた途端懐かしい腕に抱き締められて、オミもセフィリオの首にしっかりとしがみ付く。
伝わる体温も、近くなる吐息も、抱き締めてくる腕も何もかも十年前と変わらないセフィリオのもの。
「ずっと、ずっと・・・。待っていたんだこの時を」
この十年で再び伸びた髪をそっと撫でられ、その優しさに溢れる涙は止まらない。
どんなに悲しくとも嬉しくとも零れることの無かった涙が、堰を切ったように溢れ出す。
「オミの気が済むまで・・・待っていようと。その間に色んな準備をして待っていようと・・・でも、そろそろ俺も限界だった」
シュウの呼び出しが無くとも、あと一月も経っていればセフィリオはこの城を訪れていただろう。
オミが共に行く事を拒否したとしても、この城から攫ってでも連れ出す為に。
「オミが傍にいればあっという間の時間なのだろうけれど・・・この十年は長過ぎた。もう・・・離したくない」
胸に顔を埋めて涙を流し続けるオミをそっと促して、顔を上に向けさせる。
濡れた頬を手の平で包み込んで、言葉も合図も必要とせずに、そっとお互いの唇が重なった。
***
何時の間にか、謁見の間は二人きりの空間となっていた。
衛兵が誰一人として居なかったのも、二人きりにしてくれたこともすべてシュウの気遣いなのだろうけれど、オミにはそれが嬉しいような恥かしいような、少し複雑な気分になる。
「・・・落ち着いた?」
「ん・・・」
零れ続けた涙は漸く勢いを弱めたが、今度は顔を上げることが出来ない。
どれだけ心を許しあった相手とはいえ、離れ離れの空白の時間が長ければ長いほど、どこかぎこちない態度になるのは仕方なくて。
久々に触れた体温から離れることは出来ないが、オミは抱き締められた胸に顔を押し付けたままで、一向に瞳を見つめ返すことが出来ないでいた。
押し付けた耳から聞こえてくる強い鼓動。
それは、焦がれた相手がこんなにも傍にいる証なのに。
けれどセフィリオもそれを咎めたりはせずに、ただオミの身体を抱き締めたまま柔らかく言葉を紡いだ。
「少し、痩せたね。ちゃんと食べてた?」
「ん・・・。でも、セフィリオこそ・・・」
オミの目線の先に映るのは、縫い込まれたアルジスタの徽章だ。
元を正せば隣国の民であるセフィリオが、この衣服を纏っていることも気になるが、何より。
「・・・どうして、ここに?シュウは知ってたみたいだけど・・・なんで僕に」
「それは俺がオミには黙っていて欲しいと頼んだんだよ。王としてのオミに、『トランの英雄』は邪魔な存在でしかないから」
「邪魔だなんてそんな・・・!」
「だから、捨ててきた」
「・・・え?」
そこでようやく、オミの視線がセフィリオを捕える。
微かに赤く染まった瞳は久々に泣いたためだろうが、その光の強さは弱まる事を知らない。
久方に自分へと向けられたオミの視線を嬉しげに受け止めながら、セフィリオはまだ少し濡れているオミの頬をそっと撫でた。
「赤月の貴族であった家柄も、トランを救った英雄と言う肩書きも。俺がオミの傍に居る為に邪魔になるのなら、そんなものは必要ないから」
「・・・家も、ってそんなの」
「俺はもうマクドール家の人間じゃない。ただのセフィリオ・・・家名も持たない、腕だけが取り得の護衛兵になったんだ」
「・・・!」
解放戦争から十三年。それだけの長い月日が流れれば、セフィリオの顔や姿を知る者も極端に減ってくる。
いや、知っていたとしても。人間の脆い記憶は年月の間に薄れ、ただ名前だけがその記憶に残るのだ。
「家名を捨てて、アルジスタの兵に志願した。勿論この城から遠く離れた・・・誰も俺のことを知らない土地で」
見た目こそ成長しきっていないセフィリオだけれども、並大抵ではない実力を持った武人には変わりない。
オミから遠く離れた土地で、それでもオミの国のために戦いながら、地道にその地位を勝ち取ってきたのだ。
すべては、オミへ辿り着くために。
トランの英雄ではなく、一人の人間として、すべての者達に認めて貰うために。
そして、オミの願いを守る為に。
「宰相殿に見つかったのは本当に偶然だった。・・・でもその偶然がなければ、こうやってオミを抱き締めることも、もっと後の話になっていたかもしれないね」
何処の部隊に配属されても、誰よりも使えるセフィリオはすぐに隊を任されるほどの地位を手に入れていた。
偶然視察に訪れていたシュウと出会えたのは、ほんの少し前のことだったけれど。
「それから、俺は宰相殿付きの補佐に抜擢された。・・・誰も不評を唱える者はいなかったよ。頑張った甲斐があったかな」
「・・・そんな、ならどうしてすぐに・・・っ」
「会いに来なかったのかって?それは・・・オミにも、守りたいものがあるんだろう?だから、十年前に俺は振られたんじゃなかったかな」
「・・っ!」
この国を平和にする為に。
そんなみんなの願いのために、オミは自らこの城に残ったのだから。
セフィリオは、オミのその願いも守りたかったからこそ、あの時黙って身を引いたのだ。
そして誰からも認められる力と地位を手に入れて、再びここまで戻って来た。
オミがこの城を出ると決めた、今この場所に。
「・・・随分長い間我慢したんだよ。でも、俺の我慢が切れる前で良かった」
オミの身体を抱き締めていた腕が少し緩む。
そのまま一度離れてしまったセフィリオの腕は、何かを確かめるようにオミの前に差し出された。
「・・・セフィリオ?」
「もう一度訊くよ。・・・この手を取って、俺との約束を叶えてくれるよね?」
少し離れた位置から、オミへと向けて差し伸べられた手。
それは、十年前のあの日の再現だ。
あの時はセフィリオの願いより、みんなの願いを優先させてしまったけれど。
本当の願いは。・・・・・・・・オミ自身の願いは。
「・・・はい」
向けられた手の平に自身の手を重ねて、オミは柔らかい笑みを浮かべたまま小さく頷いた。
少し泣き笑いのような笑顔になってしまったけれど、その笑顔を向けられたセフィリオは、きっとこの笑顔を忘れる事は出来ないだろう。
「・・・宰相殿に挨拶する時間くらいはあげようと思ってたんだけどね」
オミの手を握り返してそのまま引き寄せ、前よりも軽くなっただろう身体を軽々と抱え上げて、歩き出す。
入り口に置いたままの荷物と棍を拾い上げ、止まることもなく真っ直ぐ城の外へと向うセフィリオの進路に、流石のオミも慌てた。
「ま、まさか今からこのまま・・・!?」
「そもそもオミが悪い。・・・あんな顔見せられて、我慢できるわけがないだろう」
「ま、また僕のせいですか?!僕が何したって・・・って、セフィリオ!本当にこのまま行く気なんじゃ・・・?!」
「何か不都合でもあるの?いいよ俺はオミさえ居てくれれば。他に何も要らない」
珍しく閑散とした城内に、セフィリオの歩く足音と二人の声しか響かない。
昼間からこんなにも静かな城は本当に珍しいのだが、今はそれがありがたかった。
「・・・でも、トンファーも持ってないんですよ?まさか丸腰で出て行くなんて」
「いいよ。オミは俺が守るから。荷物が軽くて丁度いいじゃないか」
「・・・セフィリオ・・・あのですね」
本気でこのまま出て行くつもりらしいセフィリオを止める術など、オミにすら思いつかない。
太陽はまだ高い暖かい初春の昼間。・・・気付かないうちに何時の間にか、また季節は移り変わろうとしていたようだ。
と、突然吹いた春の風に目を閉じた瞬間、セフィリオも足もピタリと止まった。
どうかしたのかと目を開けて、そこに見つけた人影に、オミの瞳は大きく驚きに開かれる。
「・・・・・ルック?」
「・・・出て行くの?」
ルックと会うのは、本当に久し振りだった。
セフィリオよりもずっと突然の別れで、それ以来なんの音沙汰もなかったというのに。
「どうして、こんな突然・・・」
「封印の役目を果たしていた城から出たせいで、隠れて見えなかった光が急に姿を現した。・・・余りにも強い光だから、君が動いたことはきっとあの国にも伝わっている筈だ」
「あの国・・・?」
その問いには答えてはくれなかったけれど。
久し振りの再会に、じっとオミを見つめていたルックの瞳が、ようやくオミを抱えたままのセフィリオへと移動する。
「・・・君も相変わらずだよね。・・・でも、それはもう君には必要ないはずだ」
「・・・それ?」
ルックが指差したのは、セフィリオの耳を飾る赤い石。
幼い日・・・。セフィリオがテッドから受け継いだ、不思議な装飾具。
「その石は魔力を高め守護を上げる・・・同時に、強い力を封印する効力を持つ、特殊な魔石だそうだよ」
「・・・へぇ?でも、これが俺に必要無いって言うのは?」
「もうその力に頼らなくても、真の紋章は君を真の主だと認めた。・・・だから、それはもう君には必要ない。寧ろ」
再びオミに視線を移したルックの瞳に、一瞬だけ柔らかい色が映る。
温度を変えた視線に気付いたのはセフィリオだけだったけれども。
「オミ・・・君にこそ、その力は必要なんだと言いに来ただけだ。強い力は強い敵をも呼び寄せる・・・覚えておいた方が良いよ」
来た時と同じ位の唐突さで、柔らかい春風と共にルックの姿は掻き消えた。
まるで幻か何かだったかのように消えてしまった姿に、慌ててオミはセフィリオの腕から降りる。
ふわりと、ルックの姿が消えた跡に残っていたのは。
「トンファー・・・?」
手に馴染んだ、オミのトンファー。
「これがルックなりに、オミを想った結果・・・なのかもね」
地面にしゃがみこんだオミの前に膝を付き、耳元で少し痛いよとそっと囁く。
「?・・・ぁ・・っ!」
何のことか分からないままセフィリオを見上げれば、突然耳朶を舐められ、続けて走った痛みに声が漏れてしまった。
ジン・・と響く小さな痛み。離れたセフィリオを見上げて、外された右の耳飾。
「・・・これ」
痺れるような感覚の右耳に自分で触れて、そこに今までセフィリオが付けていた石が輝いていることに気付いた。
「赤い石・・・似合うね、オミ。・・・あんな可愛い声で鳴いてくれるなら、もう片方はどこかの宿屋に着いてからにしようか」
「・・・ば・・ッ!!」
途端、真っ赤に頬を染めたオミを嬉しげに見つめて、立ち上がれるように手を伸ばす。
熱の冷めない頬を火照らせながらも、オミは軽くセフィリオを見つめたまま・・・石のないセフィリオの右耳に小さな違和感を感じた。
同時に、何故か懐かしく感じてしまう赤い石の魔力。
オミは昔どこかでこの魔力に守られていた時のことをうっすらと思い出した。
そう、それは・・・黒い紋章と、燃える館と・・・テッド。
「?・・・オミ?」
黙り込んでしまったオミに、セフィリオが小さく声をかける。
小さな傷とはいっても、針で肌に穴をあけたことに変わりは無いのだから、痛かったのだろうかと少し不安気な表情を見せてくる。
そのセフィリオの右手に宿るのは、あの時の黒い紋章・・・テッドと同じ紋章だ。
そこで漸く、オミはこの耳飾の出所を思い出した。
オミがテッドに託し、オミの知らない所でテッドはそれをセフィリオに託した。
オミとセフィリオが出会うことが始めから決まっていたように。
小さな魔石は人の手を渡り、再びオミへと戻って来た。
「・・・いいです。もう片方は、要りません」
手袋の、更に下の包帯の中で輝く紋章の力は驚くほど静かな波に変わり、いつも溢れ出していた力の断片すらぴたりと止めていた。
あの頃はオミも紋章など知らずに生きていたから、こんな小さな石にそんな凄い効果があるとは思いもよらなかったけれど、もう片方が必要ないと言ったのは、また別の理由があるからだ。
「・・・それは、セフィリオが付けていて・・・欲しい」
セフィリオがオミに似合うと言ってくれたように、セフィリオにもその石はとても良く似合っていた。
言ってしまえば見慣れているからなのかもしれないが、逆に言えば見慣れているからこそ、赤い石の煌かないセフィリオに違和感を覚えてしまう訳で。
「・・・ふぅん?」
「な、何ですか・・・?」
意地の悪い笑い方にオミは少し後退る。けれど、腰を抱き寄せられて、逃げられないように固定されてしまっては、オミの力で抜け出すことは難しい。
「・・・宿屋まで待つのも辛いな。・・・どうする?一度戻って、オミの部屋に行こうか」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・変わってませんね。全っ然」
呆れた声を返したオミは、ふと眼下に広がるデュナン湖をセフィリオの肩越しに目に映した。
毎日飽きるほどに眺めた風景だけれど、その中でいつもと違う景色を一望出来た。
「・・・凄い」
暖かくなった土地を求めて南下してきたのだろうか。
真っ白な水鳥が湖面を染めるように、美しく風景に溶け込んでいた。
それはオミも初めて見る光景で、鳥たちの美しさと数の多さに言葉を忘れる。
「百羽近くはいるな。・・・いつもこんなにいるの?」
「いいえ・・・多分、渡り鳥が休憩してるだけでしょうけれど・・・・あ!」
その中の一羽が何かに呼ばれたようにふわりと飛び立つ。それを追う様に、湖面を埋めていた他の鳥達も真白い翼を広げて大空へと舞い上がり始めた。
深く蒼い湖面から・・・透き通るような蒼い空へと。
「・・・彼らもまだ、旅の途中なんでしょうか」
「・・・そうだね。でもそれを言うなら俺たちもまだ、旅の途中だろう?・・・この出発点に辿り着くまで、とても長かったけれど」
そう。ここは終わりじゃない。
この世界に生れ落ちて、お互いに苦しみ足掻きながらここまで生きてきた。
でもそれは、今日この日の為の軌跡。
そして今日のこの日は、また何時の日かの為の始まりに過ぎない。
「俺たちも行こうか」
「はい」
終わりのない旅は、今漸く始まったばかり。
The END
⊂謝⊃
約三年半・・・漸く完結です!ちょーっと微妙な終り方ですが、漸くセフィオミGS、完結に至りました!
長い間応援してくださった皆様には、感謝の気持ちで一杯です!
無事に書き終えるまで続けられたのは、確実に皆様のお陰ですから!!(喜)
ラストのラストになって中々筆が動かずに大変でした・・・_| ̄|●
何だかもっと色んな事を書いてやろうと考えてた筈なのに、色々と忘れてそう・・・(笑)
片付け忘れてたピアスネタも何とか埋め込みましたけども!無理矢理感が拭えないなぁ(笑)
まぁこれで、セフィリオ×オミのお話は終わりとなります。
では応援して下さった皆様、本当にありがとうございました!!(感謝)
斎藤千夏 2006/03/28 up!