「お客様。お時間です」
座敷の障子が控え目に開かれ、見習いの少女が声を掛けた。
呼び声を掛けてきた少女は決して中を覗くことなどないが、開かれた隙間から熱気の漂った部屋の中へ、涼しげな風が吹き込んでくる。
「・・・おや、もうそんな時間か。君と過ごす時間はどうしてこんなにも短く感じるのだろう」
「まぁ・・・嬉しいことを仰って下さるのですね」
少々乱れた髪を梳き上げ、客は別れを惜しむように肌へと手を伸ばす。
敷布に広がった柔らかな髪は、指に冷たく心地良い。
滑らかな肌は、触れた手のひらへと吸い付くように潤って、『続き』を強請る様に甘く濃い色香を香らせる。
「・・・罪な人だ。こんなにも私を虜にしておいて、それでもその心を私に捧げてはくれない」
乾いた笑いを浮かべて、それでも肌に触れる手は止まらない。
「君が手に入るなら、家財全て投げ打っても構わない。君がどれ程の借金を抱えているか知れないが、それも全て私が・・・―――」
「いいえ」
ぴたりと。
「・・・そのお心だけで嬉しゅうございます」
訪れた時から今の今まで、何をしようと何を望もうと思いのままだった相手は、突然客の言葉を遮った。
同時にさり気なく身体を後ろへ退かせ、乱れた着物はそのままに、しつこく触れてくる手から逃れるように居住まいを直す。
「そう言わずに、受け入れてくれ・・・!君の為になら何だって・・・!」
「・・・お客様」
今まさに掴み掛かる勢いの客を止めたのは、障子の向こう側に座していた少女の呼び声。
「わ、分かっている!・・・・・・・・・・君が、私を受け入れてくれるまで。また来るよ」
「えぇ、それはもう心から。お客様が来て下さるのを、お待ち申し上げております」
着崩れた着物から惜しげもなく肌を晒して、敷布の上にしどけなく座り込んだまま、はんなりとした笑みを浮かべて客を見送る。
感情のままの怒声を浴びせ掛けたと言うのに、気分を害した様子もなく、湛える笑みは透き通るように柔らかい。
けれどその笑みも、男が出たと同時に閉められる障子の為に、長く眺めることは叶わなかった。
「もう少し!・・・あともう少しだけでいい!部屋の中にまで入れてくれとは言わないから」
「お時間でございますから。また、後日いらして下さいませ」
「顔を見るだけだ!もう少し!もう少しだけでいい・・・!!」
障子の向こうで告げられる声を聞きながらも、『彼女』は笑みを沈めなかった。
こんな客は何も彼一人ではなく、今に始まったものではないからだ。
通常身請け話は内密に進めるものだが、今の客のように、感情に任せて叫ぶ客も少なくはない。
この遊廓の最奥・・・最も身位の高い遊女の部屋となる奥座敷。
『彼女』は最も値の高い遊女として、幾人もの馴染み客を抱えるこの店きっての花魁なのだ。
「・・・次の前に、お湯をお使いになりますか?」
客の出て行った回廊側とは反対の、座敷奥の襖を開いて世話係の少女達が声を掛けてきた。
けれども『彼女』は首を振り、ただ敷布を調えて欲しいとだけ告げた。
他の男の残り香を身に纏わせたまま迎えた客は、大抵恨みがましく責めながら、嫉妬に狂うのを知っているから。
誰のものにもならない『彼女』を手に入れようとして、数多の客が訪れるなら。狂った客が何を求めてこようと、『彼女』にとっては大した問題ではない。
「・・・またあの子にお客様ですって」
「陰間の癖に花魁なんて。良くもあんな大きな顔が出来るわぁ・・・」
これ見よがしに囁く声は、妬みを含んだ嘲笑と冷やかし。
本物の『女』である彼女達ですらを蹴落として、そこに悠然と座っている姿が気に入らないのだろう。
「ほんに・・・男の癖に」
「・・・・・」
そう。『彼女』は『彼』であり、本来ならば花魁などと冠を戴くことすら出来ない立場なのだ。
彼に付く常連客もそれを承知で彼を買うのだから、今のところ大した問題は起きていない。
けれど、花魁と呼ばれるまでの道のりは、女の身体ひとつで獣道を掻き分けつつ崖を上るようなもの。
先に登りついた者を蹴落とそうとする者は多く、例え同じ廓の中に住まう者同士だとしても例外はない。
陰口や小言を言われるのは序の口。悪辣な手を言えば、食事に毒のようなものを混ぜられた事もある。
言ってしまえば周りの女はみな競争相手であり、敵でしかないその中で、彼はたった一人だけ『男』なのだからその風当たりも大きかった。
外見的にはまだ成長途中の少年の身体は、着物で包んでしまえば男だとは分からない。
けれど、その容貌は飛び抜けていて、尚、高飛車な他の遊女達より柔らかな当たりといい、彼は一気にその地位を勝ち取った。
色素の薄い肌と髪は、稀に見るほど透明に透き通り、色を含んで朱に染まる様はとても男とは思えない色香を匂わせる。
誰も男であることなど気にしない。
誰もが最高級の『花魁』として、彼を扱う。
高い揚代を払ってでも一時の逢瀬を望んで、毎日のように客は廓を訪れるのだ。
そんな彼を妬まない遊女達など居ない。
それでも彼は誰一人として反論するでもなく、ただ黙って聞こえる声を聞いているだけ。
彼女達からすれば、その態度も気に入らないのだろう。
「・・・っ――!」
続けて棘を含んだ言葉を吐こうとした一人の遊女は、突然後ろから大きな手に口を塞がれて、声にならない悲鳴を上げた。
「・・・そんなに陰口を叩く暇があるのなら、もっと男を惹き寄せる技を磨いておいで」
「ろ、楼主様!」
「申し訳御座いません!でも、違うのです楼主様。この者の不手際で、またも客を怒らせたようで・・・」
別にそれは彼の所為ではない。
けれども、客からしてみれば『身請けされる気も無いのにその気にさせた彼が悪い』と騒ぎ立てる連中も少なくは無い。
「・・・あぁ、あの客ね。もういい、ここには通すな」
上客だというのに、遊廓の楼主ともあろう男は、あっさりと一言で切り捨てる。
金を落として貰うことが商売であるのにも関わらず、金に対する執着心は全く持っていないようだ。
それでも、この廓はこの一帯で最も大きく豪華な遊廓として名を馳せている。
まだ成人したばかりの青年は、父が築き上げた遊廓を更に繁栄へと盛り上げ、その容姿も相まってこの遊里での人気は高い。
遊女並みの気まぐれさと美しさを兼ね備えている若き楼主を求めて、廓を乗り換える遊女達も少なくは無いという。
それと同じく、乗り換えてきた遊女達についていた客もまた廓を乗り換え、この遊廓は繁盛するばかりだ。
だからこそ客を選ぶことも可能なのかも知れないが・・・。
多額の借金を抱える彼女達遊女にしてみれば、そんな勿体無いことは出来ない。
「で、でも!あの方は容姿も悪くありませんし、お家柄と言えば、さる名家の嫡男で・・・!」
「手放したくないのならお前達の誰かが変わりに出ればいい。気に入って貰えれば、借金も少しは減るだろう?」
「・・・!」
くすくすと笑う笑い声は、明らかに嫌味を含んだ嘲笑。
けれども誰一人反論出来なかったのは相手が雇い主である楼主だからではなく、そんな金持ちの客も及ばないほどに『本当に気に入られたい相手』だからだ。
「・・・臣」
口喧しく騒ぐ遊女達を一通り黙らせ、楼主は静かな声で背を向けたままの彼に声を掛ける。
他の誰も呼び得ない柔らかな色を含んだ声音は、今までどんな音も聞こえていないように振舞っていた彼の肩を小さく揺らす威力があった。
「今夜は綺麗な満月だろうね。・・・そう、思うだろう?」
「・・・えぇ・・・、若様」
雇い主である楼主の青年にも振り返らないまま、彼・・・―――臣は小さく言葉を吐いて答えた。
「・・・さて、まだ日は高い。お前達も口ばかり動かしていないで、今のうちに稼いでおいで」
「は、はい」
「失礼致します」
臣の世話をしている少女達を除いて、臣を冷やかしに来ていた他の遊女達は我先にと張見世へ降りていく。
籬と呼ばれる柵の前に座り、相手を探して通りを歩く客を呼び寄せる場所だ。
・・・本来ならば。
そんな身分の低い遊女達が我だって陰口を囁きに来れるほど、奥座敷という場所は軽い場所ではない。
「・・・女なら・・・良かったのでしょうか」
それは、誰に掛けた問い掛けでもなく。
誰かから、返答が返る訳でもない。
ただの小さな呟きは、客が通る渡し廊下を歩く足音と、案内する小さな声に掻き消されて消えた。
「・・・こちらでございます」
先の客から次の客まで、一刻の暇もない。
からりと開かれた障子の向こうから、またも顔馴染みの客が顔を覗かせた。
「いらっしゃいまし。・・・お待ちして居りました」
迎える仕草は優美。けれども向けられる視線と乱れたままの姿は、客の劣情を煽るには十二分なもの。
挨拶の会話もそのままに、整えられた敷布に組み敷かれるのもまた・・・時間の問題であった。
***
しんしんと降り続く雨は、普段の賑やかさまでも奪い去り、人々は其々の家屋の中へと逃げ込んで行く。
稀に人影が映れば誰もが急ぎ足で、強まる雨脚を恐れてか、早く早くと先を急ぐ姿ばかりだ。
薄暗い空の下、冷たい雨に打たれながらその様子を眺める子供がいるなどと、誰も気づく余裕さえない。
土に汚れたみずぼらしい身体は細く、満足に食事さえ摂っていないだろうことは一目見れば分かるだろう。
こんな汚い子供では、誰も気づいていたとしても近寄ろうともしない。
大人は見て見ぬ振りをするし、同じ頃の子供は石を投げて追い払おうとする。
晴れた日ですらそうだったのだ。
こんな雨の日に泥にまみれた汚らしい子供へと、誰が手を差し出してくれるというのか。
子供は何かを諦めたように、往来を眺めやる視線を伏せた。
「・・・何だ、捨て子か」
唐突に声を掛けられて、同時に肌を打つ冷たい雨が止んだ事に驚いて、顔を上げた。
声を掛けられたことも久し振りだと言うのに、自分が濡れるのも構わず差し出してくれた傘は、子供を雨から庇うように広げられている。
一目で仕立ての良い着物と分かる布地を惜しげもなく雨に濡らして、ぼんやりとしたままの子供へ向かって厳しい声で告げた。
「僕と一緒に来れば、寒空に震えることも空腹を抱えることも、もうないだろう」
何を言われているのかわかっているのか。
子供は、目の前に屈む少年を、ただ呆然と見上げている。
「・・・けれど、この手を取れば。今よりも惨めな暮らしが待っているかもしれない」
子供にとっては、初めての選択と言えよう。
自分自身の意思で、これからの生き方を選べと。
差し出された手を取るか、否か。
年端も行かぬ子供への問い掛けにしては重い。けれど、その問いを掛けた少年もまた、大して年を重ねていないまだ子供だ。
「・・・」
分厚い雨雲に覆われて、月の光さえ届かない暗がりでも、少年を見つめ返す瞳だけが、不思議と強い光を集めて輝く。
「・・・・そう。なら・・・おいで」
小さく、けれど力強く頷いた幼子の手を引いて、少年はゆっくりと暗い夜道を歩き出した。
***
ぱぁん!!
響く乾いた音は、手加減なしで叩かれた衝撃の音だ。その音に驚いて、せわしなく走り回っていた少女達も一瞬動きを止める。
「餓鬼を拾って何になる!?女子ならまだしも男では使い物にならんだろうが!」
続けて叫んだ男の声に、赤い振袖を纏った少女達も、使用人達も、小さな声でまたかと呟いた。
「それもあんな汚い餓鬼!言っとくが、住まわせる気はないぞ。勿論飯だって与える気はねぇ!さっさと捨てて来い!!」
少年が戻ったのは、この近辺では敷居の高い遊廓の廓裏で、連れ戻った子供を見るなり男は激昂したのだ。
働けない食い扶ちを増やしても、確かに意味はない。
もう一度同じ場所へと捨てて来いと言う冷徹な大人に、少年は強い視線を持って反発した。
「・・・稼げれば良いんだろう。客を取って、金を稼げればそれで良いんだろう?」
「男では金にならん。分かっているのか?ここは遊廓だ。花の身体に蜜を香らせた女を売る所だ。陰間を雇うなら、違う店に行きな」
「陰間としては扱わない。あくまでも花魁候補としてここに置く」
「お、花魁だと・・・!?」
少年が睨む男は、元はといえば父の下で働いていた下男だ。
父が他界したと同時に、誰よりもこの仕事を理解しているからとの無茶な理由にかこつけて、親戚連中から跡継ぎの後見の権利を無理矢理にもぎ取った。
店を支えるというのも面倒見るからというのも当たり前だが建前で、男はこの巨大な遊廓の『楼主』を自ら声高に名乗り回っているだけだった。
少年が成人さえすればこの廓の権利は少年に移るが、それでもまだ八年は先のことだろう。
男にとって、少年は邪魔な存在であるには違いないのだが、使用人達は彼を『若』と呼び、慕っているので無碍にも出来ない。
一方で、小憎らしい子供をどう苛めて追い出そうかと考えていた時に、こんな厄介者を拾って帰ってきた。
こんな機会はないとばかりに、男も嬉々として少年を殴りつけたのだが。
「若さま。お連れ致しました」
二人の緊迫を破るように、緩やかに歳を重ねた遣手が凛とした声を響かせた。
「あ・・・、あぁ」
少年が一瞬言葉を失ったのは、侍女に連れて来られた子供の姿を見て息を呑んだからだ。
汚れた肌を洗い清めれば、それはそれは綺麗な人形のような容貌をしていた。
いつから切っていないのか、細く柔らかい赤茶の髪は、絹糸のように背中に流れている。
小さな顔に並ぶ目鼻立ちも、全て計算されたような正確さで美しく。何よりも、全てが薄い光の中で、瞳だけがとても強く眩しかった。
「どうでしょう?・・・男の身体ではありますが、とても綺麗な子供をお拾いになられましたね」
遣手の言う通り、こんな容姿を持つ子供など、女子であろうと見たこともない。
薄汚れた格好をしていても容良いその片鱗は見えていたが、肌を磨かれて髪を梳かれ、真白い着物を着せられた姿はとても美しい。
磨かれた容姿を眺め見た男の顔にも、驚きが見え隠れしている。
「・・・確かに磨けば・・・悪くないが」
その隙を突いて、少年は男に向かって言い切った。
「この遊里で一番の花魁に育ててみせよう。八年経ってもその兆しがなければ、僕ごとここを追い出すといい」
まだ子供なのにも関わらず、その威厳に溢れた振る舞いは、一代でこの財を築き上げた亡き父を思わせるものがある。
この館の主人になる権利をも賭けると言い切ったその威圧感は、並大抵の子供のものではない。
確かにそれは男にとって好条件だ。これ以上否定することもないだろう。
「・・・わかった。そこまで言うなら、置いてやっても良いが。・・・その誓い、忘れるな」
掃き捨てるように言い切ると、男は侍女に命じて一室、鬱憤を晴らすための部屋を用意させた。
また今夜も売られて来たばかりの若い娘が泣くのだろう。
廓で働いている男が遊女に手を出すのは大抵ご法度なのだが、楼主としての地位を利用して、嫌がる生娘の花を散らし、男はやりたい放題だった。
「・・・父上」
これ以上あの男の好きにさせていては、この廓を築き上げた亡き父に顔向けも出来ない。
生きていた頃の父の姿を思い出しながら、少年はまだぼんやりしている子供の手を握り締めた。
「今の話、聞いていたね?まだ意味は分からないかもしれないが」
そこで一度言葉を切り、視線を合わせるように膝をつく。
その真剣な視線が絡んでも怯えずに、子供はただ少年を見つめるだけ。
「君の身体を盾にして、僕は生きることを選んだ。・・・これからの人生を恨むなら、僕を恨め」
あの男ならやりかねないことだが、何がなんでも二人を追い出そうとするだろう。
卑劣な手を使ってくることも考えられる。だからと言って、今から逃げることだけはしたくなかった。
「生きたければ、僕に従え。・・・恨みながらもその身を花と変えてみせろ」
少年から向けられる言葉は冷たい。
けれど、見たこともない広い屋敷に通され、暖かな着物を着せられて、冷えた手を包んでくれるのは・・・他でもないこの少年なのだ。
誰も見向きもしなかった汚らしい子供に、初めて暖かな温もりを教えてくれた相手は。
「・・・はい、若様」
幼子らしからぬはっきりとした口調で、子供は少年に向かって言葉を返した。
初めて聞く子供の声音は澄んだ鈴の音色か。
向けられた無邪気な表情に、少年は少しだけ・・・この手を離してしまいたいと思った。
***
「・・・あれから八年」
少年は『楼主』へ。子供は・・・妖艶な『遊女』へと。
あの日の約束の通り、臣はなんら抵抗することもなく、従順にその身体を青年へと差し出した。
それが、どんな見返りを求めての行為なのかは分からない。
いつだって、臣は何かを欲しがる素振りさえしないのだから。
今夜は、綺麗な満月。
奥座敷の真下にある広い部屋は、この遊廓の主・楼主の住まう部屋となる。
開け放った障子から差し込む光は、淡い満月の光。
客達は二階の回廊から見ることしか出来ない豪勢な庭を間近で眺めながら、楼主となったあの日の少年は、青年へと成長を遂げた身体にゆるい着流しを纏い、ゆっくりと杯を傾けていた。
静かな静かな夜の闇。
けれども、今夜は宵客が訪れることを知っている。
「・・・若様」
足音は微か。けれども、控えめに掛けられた声は、待ち人のもの。
先ほど見た時には、抱かれ乱れた姿のままだった肌はきっちりと着物に隠され、汗で濡れていた肌と髪は、よい香りのする水でうっすらと湿っている。
「また急いで来たのか?・・・濡れたままじゃないか」
もっと近くへ寄るようにと手招きをして、浮かべる表情は柔らかい笑み。
昼間の遊女達がこの表情を見るために、あの手この手を使って彼を篭絡しようとしているなど、臣は知らないのだろう。
言われるままに傍へ寄り、それでも次を言われるまでは自分から求めようとしない。
艶やかな雫を零す髪に触れて、毀れる雫を拭うように容の良い細い顎を指で撫でる。
途端、びくりと硬直した肌に小さく笑い声を漏らして、そっと囁いた。
「・・・いつもの様に。もう少し、傍においで」
細く白い手を取り、伸ばされた脚の上へと招き上げる。
臣はそれを嫌がる風でもなく、優美に着物の裾を捌いて分け、その脚の上に座り込んだ。
途端に至近距離に近づいた綺麗な顔を、臣はただ見つめるだけだ。
明かりは、外から差し込む月と星以外に無いというのに。
はっきりと分かる誰よりも整った容貌。それが、臣を前に柔らかく色づいて、微笑む。
「わざわざ清めて来なくても良いと言っているのに」
「・・・でも」
冷たい肌を窘められるのはいつものこと。何度叱られて、それでも。
「若様に触れられる前には、綺麗な肌でいたいんです」
これが『花魁として』の答えなのか、『彼の本心』なのかは分からない。
はんなりと柔らかい笑みを浮かべて囁く言葉は、例えようもないほど甘く響く言葉。
「そう・・・。なら、早く暖めてあげないとね」
濡れたままの髪にそっと唇を落とし、その滑らかな感触を確かめるように触れていく。
臣はそれを抵抗するでもなく受け入れて、いつものように柔らかく言葉を返す。
「えぇ、早く。・・・もっと触れて下さいな」
普段通りの客に返すような言葉を告げながら、それでも相手を見つめる臣の瞳には、抑え切れない色が浮かんで消えた。
ほんの一瞬だった視線の揺れに、楼主が気付く筈もなく。
「望み通りに。・・・可愛がってあげるよ」
彼もまた客のように、何かの演技を楽しむかのように。
滑らかな臣の肌を味わうよう首筋へと唇を滑らせて、細い腰を更に細く締め上げた帯に手をかけた。
静かな夜に衣擦れの、しゅるりと解ける音が響く。
着込まれた着物を一枚一枚剥ぎ取りながらも、裾から忍び込んだ手は、臣の滑らかな肌を楽しむことに余念がない。
「んっ・・」
肌を撫でる手はとても緩やかで優しげなのに、的確に良い場所へと触れてくる手に、じわりと体温が上がってくる。
「・・・相変わらず感じ易い」
くすくすと囁かれる言葉はからかいの色を含んでいるのに、臣にはどこか甘く響く。
耳元で吹き込まれた吐息の甘さか。ふるりと震えた身体は、簡単に火を灯されてしまった。
触れ合い始めて数分。
けれど、吐き出す息はもう熱い。
「わか・・さま・・・」
あの日から。
約束のあの日から触れられ続けた身体は、誰よりも楼主である彼に従順であるよう躾けられた。
それが、気持ちからの刷り込みなのか、触れ合いからの刷り込みなのかはもう分からない。
月に一度の満月の夜は・・・二人だけの逢瀬の日。
あらゆる知識と共に教え込まれた技術は、客を取り始めてから更に磨きをかけ、臣の身体を知って篭絡しない客など居ないほどまでになっていた。
けれど、どんな男を手玉に取る臣でも、彼の手には逆らえない。
逆らおうとする気さえ起こらない。
「・・・ぁ・・っ、待っ・・・!」
この身体に触れる誰よりも優しいのに、その他の誰よりも激しく高められてしまう身体。
「もう降参?・・・まだ、夜は長いよ」
「・・ん、ぁ・・・っ・・!」
脱がされていく着物と共に溶かされていく肌は、もう甘い雫を結び始めて、艶めくように濡れる。
熱い吐息を吐きながら、それでも律儀に彼の膝に座り続けようと堪える臣の姿は、誰が見ても艶かしく美しいと感じるだろう。
「・・・まるで、綺麗な花を抱いているようだよ。・・・さぁ、俺の為に硬い蕾を咲かせて見せて」
すっかり肌蹴られた着物だが、乱された布は腕や脚に纏わり付いて、緩い枷のように臣の動きを封じてしまう。
動き辛い身体で、突然忍び込まれた指先に、思わず小さな悲鳴を上げてしまった。
「ひ、ぁっ・・!」
びくりと震えた身体は、それでもその手から逃げようとはせず、倒れ込みそうになる身体を真っ直ぐに保ったまま、震える脚で懸命に座っていた。
自分から寄りかかろうとも触れようともしない臣に、彼は小さく笑みを浮かべて、震える肩を胸の中へと抱き寄せる。
「そんなに、気持ち良い・・・?」
くたりと胸に寄りかかる臣の身体は、蕾を突く指の動きに合わせて小さく震えては熱い息を零す。
柔らかく問い掛けて来る声に微笑みながら、臣も誘うように自分から彼のそれへと手を伸ばした。
中途半端に高められた身体は続きを欲しがるが、それ以上に相手に触れたいと思う気持ちは止まらない。
抱き寄せられたことが、臣の方から触れても良いという暗黙の合図。
行為に対して決まりごとがあるわけではないが、いつからかそういう風に決まっていた。
自分から貪欲に求めることが悪いことではないけれど、『花魁』が客以上に行為へと溺れてしまっては面子もなにも無いからだ。
そう、これは。
延々八年続いたこの満月の夜の密会は。
臣が『花魁』と成る為の手解きに過ぎない。
お互いそれを分かっているからこそ、こんなにも近くで触れ合っているのに、どこかぎこちない雰囲気が流れている。
「そう・・・巧くなったね。客も喜ぶだろう?」
全くの平常そうな顔を見せておいて、臣の触れるそこだけは酷く熱い。
同時に潜り込んできた指に蕾を解かされ、否応なしに高まっていく身体を小さく震わせ、擦り寄った。
「・・っ・・若、さま・・・」
熱にうなされた声で甘えるように問い掛け、淫らな色の浮かんだ瞳で見上げる。
早く欲しいと強請るような表情を前に、耐え切れる男など居ないだろう。
けれど・・・。
「・・・欲しい?なら、ここでね・・・」
そう言って彼が撫でるように触れるのは、いつも決まって臣の唇。
「・・わかさま・・・っ」
「まだやり方がわからない?・・・なら、教えてあげるよ。何度でもね」
膝に乗せていた身体を畳の上へと押し倒して、下腹部からゆっくりと次の刺激を待ち望んでいたものへ唇を滑らせる。
「い、嫌・・・ぁ、あ・・ッ――・・・!」
その間にも、蕾を解す指は止まらない。
割り開かれた脚を持ち上げられて付け根に強い痛みを感じた。それも束の間で、その痛みは甘い疼きとなって身体中を巡り始める。
「嫌がっている割には、良さそうだけれどね・・・。止めて欲しい?」
そうじゃないと、臣は首を振る。
触れることを止めて欲しいのではない。寧ろ、熱を持て余しているこの身体に触れて欲しくてたまらない。
「わか・・さま・・・っ、どうして・・・」
抱いてくれないのかと。
焦らすだけ焦らしておきながら、この幾年で抱かれたことは一度もない。
『男』だから抱いてくれないのか。『商品』だから手をつけないのか。
「どうして、だろうね。・・・どうしてだと思う?」
「そ・・な・・・・・ッん、ぅ・・・!」
問い掛けを更に問い掛けで返されて、それでも答えようとした臣の唇は言葉を封じられるように手で塞がれてしまう。
どうしても、許してくれないたった二つの行為。
それを待ち望んで、焦がれているのに。それを、彼も気付いているだろうに。
「臣・・・?」
唇を塞いだ手をとって、意地悪な指先へ強請るように口付ける。
もういっそ彼が客であれば良かったのにと、何度願ったか。
どれだけ奉仕をしようとも。何人の男を快楽で蕩けさせる技をもってしても。
「・・・どうして、抱いて下さらないのですか・・・?」
色素の薄い肌と髪を乱れた着物の上にしどけなく横臥させ、濡れた視線は哀願を持って彼を見つめる。
「・・・っ――・・!」
どこでそんな甘え方を覚えたのか。
そんな言葉を言わせるような客が居たのかと。
「いつも、そんな風におねだりしてるの?・・・こんな風にここを濡らして」
「っ違・・!ぁ・・・ん、は・・っ」
あえて、感じた動揺を隠すように平静を装って、彼は臣の弱い箇所を悪戯に強く握る。
「どう・・・して、いつも、教えて・・・くれていたのに・・・っ」
確かに他の遊女達とも劣らない・・・いや、比べ物にならないほどに、臣は『遊女』として最高の仕上がりを見せていた。
長けた知識、感じやすい身体も、肌に漂わせる色気の甘さも、その容姿や振る舞いも全てを含めて。
「そうだね・・・確かに君には色々教えて来た」
彼の言葉に甘えるように、臣は腕を伸ばして口付けを望む。
・・・けれど。
「これだけは教えられない。教えてしまえば・・・君はもう遊女ではなくなってしまうから」
「・・・どういう、意味・・ぁ―――・・・ッ?!」
緩やかだった愛撫の手が、突然激しく執拗に攻め始めた。
言葉など忘れてしまえと言う様に。
息を継ぐ余裕さえ与えないように。
「ん・・!っや、めて・・・下さいませ、若・・さま・・・ぁ、あっ!!」
知り尽くした身体の自由を奪うことなど、彼にとってはたやすいことだ。
あっけなく上り詰めた身体は、同時にあっけないほど簡単に熱を吐き出す。
余韻に震える身体をそれでもまだ解放はしてやらず、差恥を煽るよう殊更に音を立てて攻め続けた。
「・・・やはりあの時、手を離しておけば良かったのかもしれないな」
その囁きが聞こえたのかどうか。
意識を飛ばしつつあった臣の目尻から、一滴だけ涙が零れ落ちた。
***
空は朝焼けに青白く染まり、清々しい空気は部屋の中の熱く篭った空気を吹き払うかのように強く流れる。
鳴き疲れて意識を失った細い身体を愛しげに抱きかかえ、本来居るべきである臣の部屋へと返した。
整えられた敷布に寝かしつけ、眠る臣の顔を覗き込む。
「君は花魁で、俺は楼主。・・・君に教えてあげられるのはただ『行為』でしかない」
汗に薄らと濡れる髪を愛しげに梳いて・・・小さな寝息と共に毀れる涙の跡を、そっと唇で拭う。
「・・・抱いたら、きっと手放せなくなる。君を客の前に出すことを惜しんでしまう」
この気持ちを抱えたまま彼を抱けば、それはただの『行為』を超えたものとなってしまうのは目に見えている。
臣の気持ちは知っている。自分の気持ちも気付いている。
けれどここは遊廓で、臣は花魁。誰よりも、他人の腕で美しく咲き誇る花。
だから、気持ちを確かめ合うような口付けさえ許さない。
どれだけ甘い声でせがまれても・・・この一線を越えることは出来なかった。
「どんなに欲しくても、どんなに君が望んでも」
その一生を、この籠の中で飼えるのならば。
あえて鬼になろうと、初めてこの手を握り締めた時、決意したのだから。
「・・・若・・さま・・」
静かな寝息と共に零れ落ちる声。
「俺は、君を愛せない。けれど・・・せめて。眠りの中では良い夢を・・・」
昏々と眠る臣の頬を静かに撫で上げて、薄く開いた唇へ。
初めて重ねた口付けの味は、眩暈がしそうなほど甘く。
熟していない花の蜜のように。
少しだけ、苦く感じた。
+Q.E.D+