*桜*
ひらひらと
舞い落ちる花びらは
暖かい春風に乗り
季節の移り変わりを告げる、、、
早朝。
いつもなら、冷え切った城内に漂う空気が息を吸う度に肺を突き刺していくのだけれど、今日は違った。
まだあまり人気の無い城から城下へ飛び出して、太陽の日差しを身体いっぱいに受けながら、大きく背伸びをする。
いつもの通り身に着けている袖のない胴着では、まだ少し肌寒く感じるが、それも今までよりは肌に触れる空気が暖かい。
「おはようございます!」
元気良く挨拶をして廻るのは、同盟軍軍主・リアだ。
この笑顔を毎朝の日課として楽しみにしている城下の人間も勿論のこと沢山いて、リアの笑顔でサークリッド軍の一日が始まると言っても良いだろう。
「リア様!暖かくなったからと言ってまた!無理をなさってはいけませんよ」
「はい、気を付けます。ありがとうございます!」
リアを慕いながらも子供に接する大人としての親しみを込めて、こんな風に気遣ってくれるのだ。
それはまるで城中が家族のようで、リアには嬉しい。
早朝鍛錬の為に向う道場までの道のりを、城内を歩けば寒さも軽減されるのにも関わらず、どうしてかいつも外を歩いてしまうのは、こんな声が嬉しいからなのだろう。
誰もを幸せにするような笑顔を絶やさぬまま、軽やかに走って行くリアはふと頬を撫でる風に気付いた。
「・・・でも、本当に暖かくなったな」
ハイランドはきっとまだ寒い。
この時期、風邪を引くのはいつも身体の弱かった幼馴染で、それでも道場に遊びに来るから、鍛え方が足りないと叱りながらも優しい手で診てくれるゲンカクと共に、リアとナナミの三人でよくよく看護をしたものだった。
厳しい冬は好きだけれど、怖い。
ひとりじゃなかったから、あの厳しいハイランドの冬を何事もなく過ごせたのだと思える。
真っ白に何もかもを覆い尽くす雪の恐怖は、きっと体験した者にしか分からない。
綺麗だからこそ、あんなに残酷なのだ。
純粋だからこそ、あんなにも怖いと思ってしまうのだろう。
「あれ、・・・雪?」
遠くで白い何かがちらちらと降っていた。
風に流されて遠くへ流れてしまったけれど、こんなに暖かいのに雪が降るなんて少し信じられず、リアは暫く消えた方角を見つめて立ち尽くしていた。
***
瞼を焼いた柔らかい日差しに揺り起こされるように、ユエはゆっくりと目を開いた。
とはいっても、その深い碧の虹彩に何が映る訳でもないのだけれど。少しだけなら光の温度は感じられる。
眩しいなら熱く、暗いなら冷たい。
たったそれだけしか感じられない世界だけれど、ユエは見えないことで別段不自由してもいなかった。
慣れた仕草でベッドの上から起き上がり、自然な動作のまま窓を開け放つ。
決して目が見えていないとは感じさせない動きで、頬を撫でる温かな風に小さく笑みを漏らした。
「春・・・」
一年中ほとんど変わらない気候のトランでも、流石にちょっとした四季の変化は訪れる。
昨夜までは随分と冷えていたのに、今日の風は暖かく、微かに野花の香りも混ざっているようにも思えた。
どの季節が好きとか嫌いというような好みは別段ないが、こんな暖かな日が突然訪れると、理由もないのに何故か嬉しくなってしまうのが人間というものだ。
ベッドから降りたユエの足元で、待ってましたとばかりにじゃれ付くように懐く子猫・・・琥珀を抱き上げて、すっと立ち上がる。
リアから譲り受けた時からすれば、もう随分と大きくなった。
胸に抱えれば、甘えるように頬へ擦り寄る温かなその温もりに、ユエはふと窓の外を眺める。
「・・・会いに行こうか」
ふと、こんな風に霧消に会いたくなる時がある。
決して近い距離ではないけれど、会いに行けない距離でもない。
周りの速度に流されるままに、幾つもの季節を駆け抜けて、春を迎えたのはもうこれで二十回を越えた。
自分から動くことをあまり経験して来なかったユエだからこそ、リアと出会ってからの自分の変化に一番驚いているのは、ユエ自身なのかもしれない。
「・・・慌てる事も無いけれど」
早く会いに行きたいからせめて。
甘え足りないと縋る子猫を床へと下ろして、纏っていた夜着を手早く脱ぎ捨てた。
この辺りだろうと探った先にある棚から、着替えを取り出して身につける。
この屋敷には現在、ユエと子猫以外に誰もいない。
ユエが戻らない時にはレパントの配慮できちんと整備して貰っているので別段不便は無いが、ユエひとりで過ごすにはこの屋敷はあまりにも広過ぎた。
クレオもパーンも屋敷から出て行って随分経つ。それ以来、自分以外の気配が感じられない家の中で、ユエはいつでもひとり。
ひとりきりというのは別に嫌いではないが、その場所が家であるからこそ、どこか落ち着かない。
果たして、それを『家』と呼べるのだろうか。
戻りたい、帰りたいとあんなにも思っていた『家』なのに、今ではこの家で過ごす時間が最も長く感じられてしまう。
だけれどもユエは、この家から離れることは出来ないでいる。
家に居たくないのなら、また旅に出ればいいだろうとも考えた。
けれど、それでは・・・。
「・・・リア」
会えなくなるのは、まだ辛い。
旅に出るのも、全ての決着が着いてから。それまでユエはここを動けないでいる。
全てはリアの力になりたいから。
「こんな僕でも、守りたいと思うものが出来たんだ」
他の何を犠牲にしたとしても、守りたい人が。
少しは強かになれたのかなと、またここでも変わっていく自分に気付いて、ユエは小さく笑みを零した。
「・・・夜には戻るよ」
静かに扉は閉められる。
ユエは、甘えるように鳴く子猫と、家に残る思い出の家族に小さく言葉をかけて、心地良い風の吹くトランを後にした。
ノースウィンドウでも、この心地良い春風が吹いているのかと思いを廻らせながら。
***
「あ、そうだリア。おめでとう」
朝の鍛錬と執務作業を終えたリアは、ナナミと共に食堂で遅めの昼食を摂っていた。
相変わらず美味しいハイ・ヨーの料理に、レシピを気にしながら食べていたリアは、突然目の前に差し出された包みに驚いて手を止める。
「ナナミちゃん?おめでとう、って何が?」
「もー!そろそろ春でしょ?お誕生日、おめでとう」
「・・・あ」
正確な日付は分からないし決めていない。けれど、温かな季節が一つ廻って来る度に、ナナミとジョウイはお祝いをしてくれていた。
「十五歳、になったね。リア、おめでとう」
「・・・ありがとう」
綺麗に包まれたプレゼントを受け取って、リアはふわりと笑みを浮べる。少し泣き出しそうな笑顔にナナミは笑って、頷いた。
「開けてみていい?」
「どーぞ!気に入ってくれるといいんだけど」
紙の包みを開けば、恐らく手作りなのだろう。お世辞にも綺麗とは言えないが、赤い布地にナナミらしい刺繍が縫ってある小さなお守りだった。
結び目の所に、一緒に括りつけてあるのは、小さな二つの鈴。揺らす度に涼しい音が響いて、可愛らしい。
「・・・気に入ってもらえた?」
リアは立ち上がり、向かい側に座ったナナミに抱きついた。
「リア?」
「・・・ありがとうね」
忙しさに感けて、誕生日なんてすっかり忘れていたのだ。
思わぬところでのプレゼントに、リアは少し泣きながら、感謝の意を示すようにナナミに抱きついていた。
「誕生日・・・そうですか。それでは本日から明日まで、お休みにしましょうか」
突然後ろから声が聞こえて振り返れば、シュウとアップルが立っていた。二人とも食事を摂りに来たのだろう。
「え?で、でも・・・」
「いいんですよリアさん甘えても。シュウ兄さんがいいって言ってるんですし」
「今は大した騒動もない。息抜きに、ゆっくり休んで下さい」
偶然リアとナナミの会話を訊いたのだろうが、思わぬところで大きなプレゼントを貰えたようだ。
「あ、そうですリアさん。さっき見回りの兵が見かけたと言っていたんですけど・・・」
話を訊いて、リアは食べかけの食事を手早く片付けてしまい、ハイ・ヨーにお礼を言ってから大急ぎで走り去っていった。
「・・・お姉ちゃんより大好きなんだもんなぁ」
置いていかれたナナミも拗ねてはいるが、それでも元気なリアが一番好きだから、嬉しそうに笑って走り去る弟の姿を見送った。
***
「お、ユエじゃねぇか!元気してたか?」
「見えない目でここまで大変だっただろう。一緒に飲んでくか?」
城の丁度入り口手前。
どうにか真っ直ぐ辿り着けたのは良いが、今から春の陽気に紛れて酒盛りをするらしいフリックとビクトールに捕まってしまった。
けれど、断る理由も特にない。リアはまだ執務中だろうし、邪魔をするのも悪いだろう。
「・・・?」
頷いて、誘いに乗ろうとした瞬間、微かに小さな音が聞こえた。
耳を澄ましていないと聞き取れないような小さな音だが、涼しげなその音は妙にユエの耳に残る。
「?・・・どうかしたか?」
「・・・音。・・・鈴の音?」
「鈴?いや、そんなの」
聞こえねぇぞ、とビクトールが言う前に、小さなその音はリン!と音を立ててユエの背中に突然飛びついてきた。
「どこから飛び出して来るんだリーダー!」
突然現れたリアに驚いたフリックは、笑いながらユエに苦笑を返す。
どうやったらあんな小さな音が聞こえるんだと思いながらも、リアに抱きつかれて雰囲気を変えたユエの表情を見ていたら、もう酒盛りに誘う気もなくなった。
「・・・リア」
ユエがこんな遠くまで一人で来たとあって、まさか会えると思っていなかったのだろうリアははしゃいだまま、一気に聞きたい事を捲し立てた。
「ユエさん!いらっしゃい!でも、こんな遠くまで・・・!大丈夫ですか?怪我とか、してませんか?」
「オイオイ、一気に言い過ぎだ。ユエも返事出来ないだろうが」
ビクトールに笑われて、リアは改めてユエを見上げる。確かにいきなり言い過ぎて、しかもいきなり飛びついてしまったので、少し困った顔をしたユエから、慌てて手を離した。
「あ、えっと・・・わ、ごめんなさい!いきなり、抱きついたりして・・・」
「リア」
「は、はい!」
「謝ることはない。・・・おいで」
リアの方を振り返って、少し腕を広げる。人前で、少し恥かしかったけれど、迎えられた笑顔に我慢出来るはずもなくて・・・。
地面に縫い付けられていた足を一歩前に差し出して、迎えてくれる腕にそっと触れる。
そうすれば、確認の様に髪を軽く撫でられてから、ふわりと広い胸に閉じ込められた。
「・・・ユエ、さん」
暖かい鼓動が、押し付けた頬に直接響いてくる。久し振りのユエの体温に、リアは思い切り嬉しそうに微笑んで、抱きついた。
「・・・さて、俺らは邪魔だな」
「またなユエ。リア、お前、ここ何処だかわかってるか?」
くすくすと笑う声が聞こえたけれど、今は離れたくなんかないのだ。
ここが城門前で、色んな人が見ているのは気付いているけど・・・。
リアは、もう少しだけ、と小さく呟いて、甘えるようにユエに回した腕に、ぎゅっと力を込めた。
***
流石に、城下の人たちの視線が痛くなってきたので、リアは場所を移すことにした。
ここまで歩いてきたユエを休ませるのは城の中でも良かったのだが、折角こんな暖かい天気なのだから、心地良い風が吹く場所へとユエの腕を引いて移動してきたのだ。
「リア?ここは・・・?」
「僕の秘密の場所・・・と言っても、みんな知っていますけどね」
城の裏の小さな陽だまり。
木々が立ち並ぶ木陰にぽっかりと、小さな陽だまりが出来ているのだ。
少し木が生える先を見れば湖へと続く崖だが、景色もよければ確かに流れる風は気持ち良い。
「綺麗なんです。木が、たくさん生えていて薄暗いんですけど、そこに小さな光の輪みたいな場所が出来ていて・・・」
ユエの手を引いて、その陽だまりの中に足を進める。
何も映らない瞳ではその美しい光景を見ることは出来ないが、リアに手を引かれて歩くうち、薄暗く冷たい視界が突然、ふわりと暖かい光に包まれた。
「・・・・!」
「ここだけ光が当たってるからなのかな。緑が濃くてお花も、ほら」
ユエの手を引いたまま地面に座り込み、季節の移り変わりをいち早く感じ取った草花に、ユエの手で触れさせる。
「これは、小さいけどとってもいい匂いがするんです。ほら、ね、いい香りでしょう?色は薄い赤色で、真ん中には小さくて黄色い花びらがいっぱい。ここから、匂いがするんです」
リアは、見えないユエの目の変わりに、全てを言葉で表現してくれる。
感じる風や漂う香りはわかる。形も触れれば、何となく感じ取れる。だけれど、色はどうやっても分からない。
色相を失ったユエの世界で、リアはたった一つの彩色だった。鮮やかで暖かく、いつも陽だまりに咲き誇る花のよう。
「このお花、ここにはいっぱい咲いてるんです。摘んでしまうのは可哀相だけど、ちょっとだけ、貰って帰りましょうか」
この花で、ちょっとしたお菓子が作れるのだと、リアは笑う。
食べてみたいといったユエの言葉に微笑んで、作ってくれるといってくれたのだ。
「ハイ・ヨーさん、貸してくれるかな?でも、そろそろ夕食の準備が始まるから・・・」
残念そうに声を沈ませたリアに、ユエはふと顔を上げた。
「なら、トランへおいで」
「・・・え?」
花を摘むのに熱中していたリアは、小さく呟かれた言葉を聞き取れなかった。
木々を揺らす風も邪魔をして、ユエの声を掻き消してしまったから。
「ユエさん、何か言いました?」
風で目に掛かる髪を押えて、ユエに尋ねる。
手を伸ばしてユエに触れれば、その手の平を握り返しながらユエはもう一度口を開いた。
「トランへ・・・家へおいで、リア」
「・・・あ、え・・・?」
「僕の家へ・・・一緒に帰ろう?」
握られた手の平が熱い。ただ握られているだけなのに、ユエから体温を移されるように、リアの身体が火照ってくる。
「ユ、ユエさ・・・」
握られた手の平をそのまま、強く引かれて腕の中に閉じ込められて。リン・・・と涼しい音が響いたが、それすらも分からないままリアはぎゅっと目を閉じる。
緊張したリアの背中をそっと抱き締められて、髪に唇が埋まるのを感じた。
「・・・リア」
ドキドキと速さを上げる胸の音。
嬉しくて、でも恥かしくて、ドキドキは収まらない。
髪に降りてきたキスはとても優しくて柔らかかったけれど、ユエの声に紛れた寂しげな感情に、リアはゆっくりと顔を上げる。
「・・・ごめんね」
我侭を言って、ごめんね。
顔を上げたリアの額に唇をずらして、小さく口付ける。
苦笑を浮べたユエの表情は、どうしてなのか寂しそうに歪んでいた。
その表情にも何か理由があるのだろうが、何となく、傷付けてしまいそうで尋ねる事も出来ない。
「ユエさん・・・」
ユエのそんな表情は綺麗だけれど、綺麗過ぎて悲しくなる。
まるで、今朝思い出した雪みたいだと、リアは思う。
雪の様に、この表情は暖めれば溶けてしまう。だけれど、溶かしてしまわないと、ユエはこの寂しげな表情のまま、ずっと苦しむ。
「あの・・・ユエさん。お邪魔じゃなければですけれど・・・」
少し照れくさいけれど、溶かしてあげたい。リアが溶かせる哀しみなのならば。
「リア・・・?」
精一杯の気持ちを込めて、ユエの手を両手で握りしめる。
「ユエさんのお家へ・・・トランへ帰りましょう?」
「・・・リア、でも君は・・・」
「平気です。今日と明日は軍主のお仕事お休みなんです」
だから・・・。
「連れて帰って下さい。・・・一緒に、帰りましょう」
リアの言葉に驚いたままのユエだったが、風が花の香りを伝えるように大きく吹いた瞬間、リアは再びユエの腕の中に閉じ込められていた。
大きくて、暖かい手の平が背中を抱き締める。躊躇いながらもリアもユエの背中に腕を回した。
すると少しだけ力が緩み、耳元でリアを呼ぶ声が響く。
呼ばれるままに顔を上げれば、降りてきた柔らかな唇へのキスに、リアはゆっくりと目を閉じた。
暖かい春風の贈り物は、二人の周りに花びらを散らして消えていく。
何処から運ばれてきたのか、薄紅色の花びらが、ひらりと舞い上がっていった。
***
ビッキーにバナーまで送って貰った二人は、そのままバナーの峠を乗り越え、日が暮れる前にはトランの入り口まで辿り着いていた。
春の陽気は、リアの城があるノースウィンドウよりトランの方が濃い。元々温暖な気候のトランだからこそ、春の訪れも一足早いのだろう。
「わー!綺麗!春のトランってこんなに綺麗なんですか」
整えられた花壇には、敷き詰められたように咲く色とりどりの花。
色ごとに計算して植えられているようで、花びらだけで何かの模様が描いてあることに気付いた。
「・・・この章、どこかで・・・」
小さく呟いたリアに、くすりと笑うユエの声。手を繋いだままだったから聞こえたような笑い声だが、リアはふと思い出してユエを振り返った。
「ユエさん?これ・・・」
「・・・今年も咲いているのか」
そうだよ、と頷いたのは、ユエ。花びらで花壇一杯に大きく描かれているのは、マクドール家の家紋だ。
これは、トランがまだ赤月帝国だった頃からこの花壇はいつもマクドール家の家紋を彩っていた。
赤月帝国の国紋でもなければ、王室ルーグナー家の家紋でもない。
国に貢献していたのはマクドール家だけではないのにこんな扱いをされていたという事は、それだけ武家マクドールの人間は国に忠誠を誓い、尚且つその忠誠を裏切らずに国を守ってきたと言うことなのだろう。
「マクドール家はもう貴族でもなんでもない。・・・父の代で、この花壇は終らせるべきだったのだけれど」
それを許すレパントではない。赤月帝国はもう滅びたが、生まれ変わったトラン共和国という国では、マクドール家はなによりも優遇されるべき家なのだ。
赤月では反逆者扱いされようとも、トランでは英雄の生まれた家なのだから・・・、と。
それでも、ユエには心苦しいものがある。父と、代々の祖先が選んできた道を、大きく変えてしまったのはユエなのだ。
「でも、綺麗ですよ」
リアの声に、ユエはふと視界を開かれた気がした。
確かに、花は美しい。誰もがこの花壇の前で笑顔になれるほど。
「・・・いい香り。ねぇ、ユエさん」
「・・・そうだね」
リアの言葉は魔法だ。
言って欲しいことを、欲しいと思う言葉を惜しげもなく降らせてくれる。言葉で足りない時には、その温かさで包み込んでくれる。
「ユエさん?」
きゅっと、手の平に篭る力にリアが振り返る気配がした。恐らく、リアの瞳はユエを映しているのだろう。
言葉では表せないこの気持ちを、どうやって伝えたらいいのか。
考えているうちに、頬が緩く笑みの形をとっていた。
愛しいと思うだけで、笑えるとは思わなかったのだが、気持ちが溢れてくると同時に零れるのは笑顔だけ。
「ユエさ・・・あ、あの」
きっと、また赤く染まっているのだろう。柔らかな頬に触れて、やはり少し熱い肌にユエは微笑む。
見えていなくてもリアの表情は全て覚えているから、不自由はない。
ただ、涙だけは隠されると分からない。苦痛に耐えている顔も、気付いてあげられない。それだけが気がかりだが。
「ユエさん、早く、お家に・・・!」
「・・・?」
頬に触れていた手を掴まれて、足早にその場を後にした。
ユエは気付いていなかったのだろうか、いや気付いていたのだろうが気にならないのだろう。
ユエは目立つのだ。何処にいても、ましてやグレッグミンスターの街中などでは、誰もが立ち止まってユエの姿を瞳に映しこむ。
想いの溢れた笑顔で微笑んだ時も勿論、立ち止まって眺める人は大勢いた。
あちらこちらから聞こえてくる感嘆の溜息に、リアは居た堪れなくなって逃げ出したのだ。
それに・・・。
「・・・見られたくなかった、かも・・・」
「リア・・・?」
「あ、いえ!なんでも・・・」
あの笑顔は自分だけの物にしたかった・・・なんて、独占欲に苦しむのは、出来れば知らずにいたかった。
独占欲は苦しい。相手を、他の誰にも見せたくなくなる。相手の何から何まで全て、自分だけのものにしてしまいたくなる。
近々、あまり使われた事のないだろうマクドール家の台所を借りて、約束のお菓子を作りながらも、気持ちは酷く不安定だ。
「出来るまで少しかかります。立っているの疲れるでしょう?」
ユエをリビングに追いやって、もう一度深い溜息。
砂糖と花の甘い香りは気持ちを安らげてはくれるけれど、こんな気持ちになってしまう自分の心が嫌で仕方なかった。
「誰のものでもない・・・ユエさんは、ユエさんのものなのに」
欲しがってはいけない。
あの優しい人を困らせるだけだから。
ズキズキと痛む胸を無理矢理心の奥へ押し込んで、リアは止まっていた手を手早く動かし始めた。
***
ユエは椅子に腰掛けたまま、見えない目で窓の外を眺めていた。
膝の上には、丸くなった琥珀。喉を鳴らして甘えるのを撫でてやりながらも、視線は外から離れない。
窓の外には綺麗に色付いた春らしい光景が広がっている事だろう。
幼い頃何度も見た景色そのままに、色付いている庭は確かにとても綺麗だった。
一番記憶に残るのは、中庭に立つ大きな幹の木だ。毎年春になると同時に咲き狂うように満開の花びらを咲かせる。
風が吹けば舞い散る薄桃色の花びらは、雨が降れば一気にその美しい姿を散らしてしまう。
一年に一度だけ。
そんな儚い花だからこそ、あんなにも美しく感じるのだろう。
開いたままの窓から、ふわりと、花の香りが漂った。
優しい香りも楽しめる花だから、グレミオもよく小さな枝を花瓶に活けて飾っていた。
食べても美味しいからと、お菓子にしたり塩漬けにして茶に浮べたり・・・。
「ユエさん、出来ましたよ」
器に盛られて、綺麗に形を整えられた花びらは、それは可愛らしいお菓子だった。
少し焦がした砂糖を糸状に巻きつけてあるその細工も、金の糸を絡めたようで美しい。
まぶしてある砂糖がキラキラと光って、小さな宝石のようにも見える。
勿論、見えないユエには分からないが、漂う甘い匂いに小さく笑みが零れた。
「砂糖付け?」
「そうです。あれ、・・・どうして?」
「違う花で、よく作っていたから」
そのまま、ユエの視線は外へと向けられた。窓の外には、咲き乱れる薄桃色の花びら。
「・・・わ、綺麗」
屋敷の外からは見えない、中庭だけに咲いた一本の木。
今日は風が強いから、花びらも綺麗に吹雪いているのだろう。
「外で食べようか・・・?」
花吹雪に喜んでいる様子のリアにそう声をかければ、嬉しそうな声ではい、と大きく頷いて見せた。
手を引かれて、幹の下。
はらはらと舞い落ちてくる花びらは、手で掴もうとも掴めない。
空気を孕んで、ひらひらと方向を変えていく気まぐれさは、いっそ移ろいやすい心そのものだ。
「すごい!こんな綺麗な木があったなんて・・・」
リアはどうやら初めて見るものらしく、嬉しそうに声をあげて笑っている。それだけでも、連れてきて良かった、そう思えた。
舞い散る花びらの中で笑っているリアの姿は、記憶に無いだけで瞳には映らない。
少しだけ残念な気持ちも浮かぶが、喜んでいるリアの声だけで、ユエにも不思議と笑みが零れた。
ふと、幼き記憶と共に、ユエはここは自分の家だと言うことを、今更ながらに思い出した。
忘れていたのだ。忘れるほど、ここは居心地が良かった。
今朝感じたばかりの空虚感が、全く無い。ひとりきりだと感じたあの寂しさは、もう何処にも無かった。
「リア・・・」
幼い頃は触れなかった枝に触れる。身体はここまで成長したけれど、心はあの時のまま止まってしまっていたのだろう。幼き日の、父がいてグレミオ達がいて、親友がいたあの頃。
無意識に求めてしまっていたのは、そんな温かさだった。
それなのに、今はリアがいるだけで・・・。
「っ・・ユエさ・・・?」
こんなにも、ユエの心は満たされている。満たされていく。
「何度でも、見においで」
けれど、次の雨が降れば、この花びらはすぐにでも散ってしまうだろう。
ユエは、後ろから抱き締めたリアの手前で、掬うように手の平を器にする。
すると、舞い落ちてきた花びらが、目掛けたようにひらりと手の中に納まった。
「来年も再来年も、この花びらを見たら・・・」
ここへ、おいで。
リアが帰ってくる場所ならば、ユエはいつまでもこの家で暮らしていけるだろう。出て行こうという気にすら、もうなれない。
出来るならばこの腕を放さずに、閉じ込めてしまいたいけれど。
飛び回ろうとする小鳥を、閉じ込めてはおけないから。
せめて腕を伸ばして、待っていよう。
「ユエさん・・・」
ユエの手の平に乗った小さな花びら。
そっと受け取って、リアは頷いた。
こんなにも暖かい春風ならば、この花びらをどこまでも届けてくれることだろう。
リアの城まで、いや、もっと遠くの世界中まで。
柔らかい香りと、ふたりきりの約束を小さな花びらに乗せて。
その薄紅色の約束の花を、人々はこう呼ぶのだ。
" 桜 " と。
END