A*H

Angel Halo 0 −Eden−

* Eden 4 *






「はぁ、はぁ・・・っ!」
傷付いた背中の羽は未だズキズキと痛み、偶に視界を曇らせる。ルックの負わせた傷は思ったよりも酷いらしく、無事逃れきり安堵した今では痛みも増して襲い掛かかってくるのだ。
そもそも、悪魔は太陽が苦手だ。
アーティエの様に光を好んで地上に出る者など、この魔界に殆どいないと言っていい。
「く・・・」
痛みは酷いが、それでも腕の中にあるアーティエの体温だけが、ジョウイには暖かく、信じられるものとなる。
地上との境目が消えるまでゼロの名を叫んでいたアーティエは、今やもう腕の中で大人しい。
・・・泣いているのか、俯いたままで顔を上げようとしないアーティエを、そっと覗き込んだ。
「・・・アーティ?」
反応の返らないアーティエの身体をそっと腕から地面に降ろして、もう一度覗き込む。
「・・・っ、は・・・っ・・・」
腕と足に火傷のような傷を負い、今まで抱き締めていた身体にも何らかの影響が出てしまったのかうずくまったまま動こうとしない。
苦しそうに息を吐くアーティエの様子を見て、ジョウイは先ほど言いかけた言葉を思い出したように続けた。
「・・・まさか、君は光に憧れて・・・、悪魔としての力を・・・全て捨てたのかい?」
「・・・」
「・・・あの天使に、憧れて・・・?」
「・・・僕は・・・」
もしそれが事実ならば、確かに瘴気の漂う魔界の空気は、アーティエにとって苦しいものだろう。
天に近しい者程魔界の空気は毒に変わる。
光に慣れたアーティエの身体は、ジョウイとの接触を拒絶する程にまで天に近付いていた。
いや、悪魔は天使に成り代わる事は出来ない。
けれど、アーティエはもう純粋なる魔ですら、なかった。
「・・・ゼロ、ゼロ・・・っ!」
言葉を忘れた子供の様に、黒く渦巻く魔界の門に向かってただ一人の名前を叫ぶ。
立ち上がる力すら失っているのに、それでも光溢れる地上に憧れて、もう一度戻ろうと手を伸ばす。
「アーティ・・・、な、何だ・・・?!」
呼びかけようとしたジョウイは、突如稲光を発し始めた門に驚いて顔を上げる。黒い暴風の渦巻く門の向こうから、酷く純粋な魔の力を感じた。
そして、その圧倒的な力は、現魔王ルカにも勝るとも劣らない程の威力を持って、爆風と共に門を吹き飛ばしてしまった。
「・・・な・・・」
流石のジョウイも、言葉を失う。
崩れる門の傍に立ち、こちらに歩いてくる姿が信じられない。地上で見たときには六枚あった美しい羽も、決して越えられない壁を突き破った代償にか、最も大きな一対を残して全て失われていた。
「っ・・は、・・・返して、貰う。君に、アーティエを連れて行く資格は・・ない」
羽を失うという事は、天の光を失うのと同じ事。
辛うじて繋ぎ止めている二枚の羽のお陰で立っていられるのだろうが、それでも天使が魔界へ入り込めたなどとは聞いた事もなかった。
羽を六つ持つと言われる熾天使とはいえ、ゼロ以外の天使ならありえないことだろう。
「・・・っ」
「ゼロ・・・っ!」
それでも、瘴気の濃い魔界の空気に受けるダメージは、アーティエの比ではないようだった。
元々悪魔であったアーティエとは違い、ゼロは未だ天の光の中で生まれた天使に変わりはない。
粗方の力を失っているとはいえ、その身から溢れる皓い光は収まることを知らず、光の届かない地の底でまで強く輝いていた。
普段なら、もし地上でなら勝ち目など万に一つもないだろうが・・・・・・今この場でなら。
「・・・ジョウイ・・・?」
「退くんだ、アーティ。・・・僕は、誰かに君を取られることも許せなければ、このまま魔界にまで入り込んだ天使を見過ごす事も出来ないんだよ」
よくよく見れば、そしてその名前を聞けば。
知らない訳がない程、ゼロは名高い天使であった。
誰の前でも膝を付いたことがなく、その純白の衣を穢せた者すら居ないと聞く。
ゼロ自身に何があったのかジョウイの知る所ではないが、今ではその衣もなく、爆風に汚れた肌は剥き出しだ。
「だ、だめ・・・!やだ、ジョウイ・・・っ」
やっとの事で、ゼロの近くまで這い寄ったアーティエは、その小さな背に庇うように両腕を広げる。
魔界の瘴気に苦しそうに呼吸をしていたはずなのに、青い顔色のまま、それでも気丈な瞳は揺るがない。
「・・・交換したよね。君が生まれた時に、約束の印として」
ゼロを睨むジョウイの瞳は、アーティエと左右逆の、けれど同じ瞳の色。
「だから、君は僕のものなんだよ。悪魔が天使のものになれないなんて事は、アーティエだって気付いているだろう?」
抜いたままの剣を手に、一歩一歩と近寄ってくるジョウイの足音。
「・・・っ」
吹き付ける殺気に、アーティエの表情が酷く歪む。
魔界で魔力の混ざった気を受けるのは、今のアーティエには堪え難いほどの苦痛にしかならない。
弱々しく背中の羽を揺らして、それでもその場から退こうとせずに、ゼロを庇い続ける。
「・・・アーティエ。退くんだ」
『まぁ待て。・・・それに、今の貴様で敵う相手では有るまい』
「・・・その声は、王?!」
姿はない。けれども、魔界全土を揺るがすような声は一つの漏れもなく、そこかしこの悪魔たちに届いて響く。
「ど、どうして止められるのですか?!今ならあの憎き熾天使を殺せる時だというのに・・・!」
『近寄るが最後。貴様は、あの闇に飲み込まれるぞ』
「・・・闇?」
皓い光が溢れる姿に隠れて見えなかったが、言われて見ればその黒い闇はゼロの右手を中心にして集まり、力を溜め込んでいる。
『その力は天の豚共よりはこちらの魔に近い力だ。・・・生命を吸い取る、魔の力だ』
「・・・なんだって・・・?」
きっと、この力があったからこそ、ゼロは天使でありながらこの魔界へ落ちることが出来たのだろう。
常識破りな力を秘めながら、それでもゼロは今の今までこの力を使おうとはしなかった。
『・・貴様の仕事は、もう終わりだ。戻れ』
「そ、そうは言っても、このままでは・・・」
『逃がすつもりはない。が、貴様の仕事は奴を上手く誘い込むことだ。・・・手駒としては良く働いた』
「・・・手、駒・・・?」
『奴が天に呆れている事も、地上に安らぎを求めていた事も知っていた。・・・だからこそ、俺はそいつを利用した』
「ぅ・・・ぁあッ・・・!!」
突如黒い稲光が響き、アーティエの小さな身体を直撃する。魔王の強過ぎる魔力を受け、軽い身体は木葉のように宙へと舞い上がった。
「アーティ!まさか、そんな・・・・・!!」
そう、全ては魔王の仕組んだ罠だったのだ。
ゼロは、天界を背負って戦う限り、まともに交戦して勝てる相手ではないのだ。けれど、このまま放置しておくのも魔界として辛いものがある。だからこそ、魔王は情に脆い義弟の伴侶として綺麗な子供を生み出し、更に地上でもっとも穢れのない場所に放置した。
天使の好む場所を選び、弱々しい魔を一つ。
『餌』として放置したのだ。
最強の熾天使をこの地に堕とす為に。
神の寵愛を受けし、『ゼロ』という天使を、神の御許から奪う為に。
『見事に引っ掛かってくれたものだ。力も持たぬちっぽけな虫けらでも利用価値はあるものだな!!』
そうして、上手くゼロを誘い込めた後はもう、アーティエの存在はもう用済みということなのだろう。
高笑いを響かせる魔王の声を聞きながら、ジョウイは力を失い、剣すらも取り落とす。抗う力さえ、ない。次代と言われようと、現王との差はこんなにも大きいのだ。
「・・・く・・・」
己を守る力も、愛しい者を守る力すらも。
ジョウイは、自分の無力を感じて、地面に頽折れた。
「・・・アーティ・・・!」
けれど、ゼロは違う。このまま目の前でアーティエが消滅すると言うのに、黙って見ていることなど出来はしない。
最も黒い闇を扱う魔王の魔力に飛び込んで、気を失ってしまったアーティエへと手を伸ばす。
「・・・そんな、無茶だ・・・!」
ジョウイでさえ、ルカの魔力に飛び込もうとは思わない。
けれどゼロは。
天使であることも、アーティエに触れられないという事も半ば忘れて、ただ手を伸ばしていた。
「く・・・っ!!」
ルカの魔力に触れた途端、羽が激痛を持って震え出す。
これ以上は危険だと、天の力がゼロを止めようとする。ゼロを形作る神の力が魔を排除しようと暴れ出していた。
「天の光、神の加護?そんな物、僕には必要ない・・・!!」
ゼロの伸ばした腕が、稲妻に囚われたアーティエに触れる。途端、魔界は黒と白の光が交じり合い、そのまま爆発を起こした。
「・・・そ、そんな・・・!」
爆風の中で、ジョウイはそれでもアーティエの居た場所から目を放すことが出来ないでいた。舞い上がる粉塵に視界は何も映さないが、消えてしまったなどと信じられる訳がない。
信じたくはないけれど、上級天使に触れられてその姿を保っていられるほど、アーティエは上級の魔ではなかった。
『・・・は、ふははは!!!そうか、そんなにもその虫けらが愛しいか!』
「・・・?」
絶望に愕然としていたジョウイの頭上から、またもルカの声が降り下りる。
収まってきた塵の中にうっすらと、影が映った。
『神の愛した御子も堕ちたものだな!悪魔の子を救う為に自ら堕天を選ぶとは。手駒になるならば歓迎するぞ?』
後半は紛れもなく冗談だろう。
けれども、魔王にそんな言葉を言わせてしまうほどの行為を、ゼロはアーティエの為にやって見せたのだ。
「・・・アーティエ・・・?」
閉じた目は開かない。
けれど、怪我も傷もなく、地面に片膝を付いているゼロの腕の中にしっかりと抱えられていた。
「そんな、触れられる訳が・・・!」
ない、と続けようとして、地面に滴り落ちる真っ赤な鮮血に気付く。
真白い下衣を血で染めて、苦痛に表情を歪めているゼロの背には、あの美しかった羽が片方見当たらない。
アーティエを抱えている左腕とは逆の手で毟り取られた純白の羽根が、瘴気に混じって散らばっていく。
「・・・引き千切った、のか・・・?自分で・・・?」
ジョウイの言葉に、ゼロは痛みを堪えながらも満足そうに微笑んでみせた。
血に汚れた純白の千切れた羽根。
けれど、片翼となってしまった左の羽は、神の力を否定した為に、羽先から色を漆黒に染めつつあった。
「・・・堕天・・・したのか。アーティエただ一人の為に」
勝てないと、思った。
神の寵愛も権力も力も。
手に入れていた物何もかもを捨てて、アーティエ一人だけを望むなんて、幾ら愛しく思っていてもジョウイには出来る事ではないから。
それは、アーティエも。
ゼロとジョウイに比べて失うもの自体を持たないアーティエだったけれど、ただゼロの為に自分の本質すら捨てようとしていた。そうして、消えてしまおうとも、最後までゼロを庇い続けた。
「・・・そうだね、元々君は・・・」
悪魔であり続けるには、優しすぎるのだ。
そしてゼロも。
堕天したからとて、その力を悪魔として神に向けて使うことはないだろう。
二人はただ、手に入れたいものを手に入れたのだ。
他の持てる物全てを捨てて、ただお互いを手に入れた。
「・・・勝てないな、本当に」
苦笑を浮かべて、ジョウイは崩れた門を眺め見る。
地上へと続く道は楽ではないが、開く事は可能だろう。
ルカも、神の御使いではなくなったゼロになど興味がなくなったらしく、高笑いの後ぷっつりと声を途切れさせていた。今更、殆どの力を失った二人を追うことも考えられない。
「・・・アーティ。何も出来なかった僕を許して。・・・せめてもの愛を・・・送るから」
残り少ない力を掻き集めて二人を包み込み、暗濁とした門の向こうへ道を繋ぐ。
「君達に加護を。・・・せめて、あの閉じられた間の世界が、君達の楽園であるように・・・」
ジョウイの力は二人を包んだまま、繋がれた道を登っていく。
そうして、一言呟いた。
もう二度と会う事もないだろう、愛しい相手に向けて。
「・・・さようなら」





***





「・・・っ!」
無理矢理崩れた門を通り抜けた為か、間の世界の出口となる門は存在せずに突如湖の中に落された。
水面から顔を出したゼロは、痛む背よりも腕の中で眠り続けるアーティエが気に掛かって仕方ない。
「アーティ、・・・アーティエ!」
何度も何度も呼びかけては、その細い身体を揺らして、漸くアーティエの長い睫が揺れる。
「・・・ゼ、ロ・・?」
眩しい太陽の光を背に、水に濡れたゼロの視線を受けて、アーティエはまだ覚醒しきれない意識のままゼロに向けて手を伸ばした。
温かな小さな手が、ゼロの髪に触れる。
「・・・っ、良かった・・・!」
生きていてくれて。
感情の赴くまま、思い切り深く腕の中に閉じ込めて、強く抱き締める。柔らかく暖かい肌を腕に、ゼロはただ、アーティエの無事に安堵し、喜んだ。
「・・・僕・・どうして・・・?」
自分が魔王の力を受けて、今も尚生きていることが信じられないのか、アーティエは暫くそのままゼロに抱かれていたが、ふと気が付いて驚いたように声を上げる。
「ゼロ・・・?!どうして、僕・・・・」
声を上げたアーティエを抱く腕から少し力を抜き、閉じ込めていた身体を解放する。
すると、もう一度アーティエの手の平がゼロの肌に触れてくる。何かを確かめるように、何度も。
「触っても、痛くないよ。もう・・僕がアーティエを傷つけることもなくなったんだ」
「・・・っ・・・ゼロ、羽が・・・!」
ゼロが触れても、もうアーティエが消えることはない。
けれどその代償に、二人の周りに散ったゼロの羽根。
そして片翼となってしまった背中の羽は、先ほどよりも闇の侵食を受けて、漆黒に染まり始めている。
「・・・大丈夫。大したことはないよ」
「でも・・・!」
これではもう、ゼロは今までのように空を駆けることもできないだろう。
抱かれていたゼロの腕から抜け出し、弱々しく羽ばたく背中の羽を動かして、湖の中に立つゼロの背中へと廻った。
「・・・ずっと、ずっとずっと、触ってみたかった」
出逢った頃の、穢れなき純白の翼ではないけれど。
悪魔のものとは違い、柔らかな鳥の羽根のような触り心地に、嬉しそうに微笑む。そして・・・。
「・・・っ!アー、ティ・・・?」
引き千切られた背中の傷にそっと触れ、溢れる想いのままにそっと唇を落した。
溢れる血を拭おうと。
そして、傷の痛みを少しでも癒そうと。
何かの儀式のように何度も口付けてくるアーティエの唇を感じて、今まで静かに立っていたゼロは水面を揺らした。
「・・・ゼロ?」
「もう、我慢しなくても、良いかな・・・?」
唇に付いた自身の血を拭うように指で撫でる。その柔らかさに笑みを深めて、軽く啄ばむように、唇を重ねた。
「・・っん、・・・っ!」
突然の口付けに戸惑うアーティエ。けれども、少しも逃げようとは思わない。
「ずっとずっと触れたくて、・・・気が狂いそうだった」
透き通るようなアーティエの髪に触れ、その指を首筋に下ろす。そのまま滑るように小さな頬を包み、少し傾けるように抱き込んで、二度目は深く、深く口付けた。
「・・・っん・・ぁ、・・・ゼ、ロ・・・」
「・・・アーティ」
次第に、アーティエの腕がゼロの首に廻る。同じくして、ゼロもアーティエの細い身体を、もう一度深く抱き締めた。
「・・・・裏切り者」
湖の辺の木々の上で。
小さく呟く天使の声が零れたけれど。
誰一人、その声を耳にするものはなく、そのうち天から降りて来るその御姿を見るものも現れなくなっていた。

次第に、地上には知恵を持つ者が生まれ始める。
天使とも悪魔とも言い難い、翼を持たない生命体。
力を失い、けれど愛を手に入れた天使と悪魔は、二人きりの楽園からその者達を見守り、愛し、慈しんだ。
未来永劫の時を経て、今もなお。
二人の願いは、変わらずに、『人間』と名付けられた子供達に贈られることとなる。
















―――・・・我が子らに、多く幸あれ・・・―――






















THE END




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