* Eden 1 *
天と地の狭間。
まだ知を持った生物が現存していない、ただただ深い自然だけが広がる大地。
『間(ハザマ)』と呼ばれるこの世界には、稀に黒や白の大きな鳥が翼を休める為に降りてくる。
今も森深い湖に、一羽の大きな白い鳥が舞い降りた。
鳥・・・と言っても、その純白の翼を生やしている身体は、手足の揃ったヒトのものだ。その身体を包み、ひらひらと風に舞う身衣は、ゆったりとした純白の絹衣。
そして背中の羽を広げれば、それは天使の御姿となる。
「・・・この世界の方が、天界よりよほど穢れもない」
溜息と共に呟かれた言葉には、隠そうともしない呆れと疲れが滲み出ていた。
『穢れ無き、気高き者』と言われようが、その力を増して神に近付くにつれて、心を持つ生き物は傲慢になっていく。
そして貪欲になり、何もかもを求め手に入れて、『権力』という名の武器を片手に遊楽に耽るのだ。
天界の空気は確かに素晴らしい。
けれど、まだ何者にも変えられていないこの世界の方が、天に幻滅した者には呼吸をしやすい場所となっていた。
この湖も、訪れるのは初めてではない。
きっと恐らく誰も知らないだろうが、広い間の世界の中で最も、美しく清らかで、温かな場所だ。
スラリと高い背を伸ばし、広げていた羽を静かに折りたたむ。その御姿、天使の真名を『ゼロ』といった。
「・・・このまま力を手に入れ続けて、その先に何があると言うんだ・・・?」
ゼロは天上界にて、今最も神に近しい者とされている。
それはただ、この世界を独占しようと企む魔界の者達との戦いで、最も戦績を上げているという理由に他ならない。
誰か他人を殺すことで手に入れた今の地位。誰もが羨み、妬む最高の地位。
しかし、ゼロは次代の神としての地位を喜ぶどころか、受け入れる気は更々なかった。
天界に疑問を持ってしまった今では、このままあの世界を治める者になれはしない。けれど、天界や神は次代にゼロを望んでいる。天使としては異端としか言い様がないゼロの力を惜しく、そして欲しがっているのだ。
受け入れる気のない期待は重い。幾つもの羨望と嫉妬の交じり合った眼差しを受け止めることが苦しくて、今も天界を飛び出して来たばかり。ゼロは身近な岩に腰を降ろし、太陽に煌く湖面を眺め、深く息を吐く。
今手に入れられるものは全て手に入れてしまった。欲しいと願った物は、いや、願わなくとも手に入れることはできるだろう。それを皆は羨むが、良い事ばかりでもない。
はっきりとした目的のない生の中で、一体何を糧として過ごせば良いのかさえ、解らなくなってくる。
この世界にただ存在し続ける理由すら、ゼロはもう見つけることは出来ないだろう。
「・・・このまま、僕はどうしたらいい?」
無意識の言葉が零れ落ちるほど、ゼロにとってここが一番落ち着く場所なのだ。
金と白に染め上げられた天界とは違い、茂った碧も、天の蒼も、水の煌きも、総てがこんなにも美しい。
何を望まなくとも、ここから眺める世界はこんなにも心を落ち着かせるものになる。この間の世界から望む天界は、空を見上げて、なるほど美しいと感じた。
「・・・!」
と、強い風もないのに揺れた湖面に目を凝らせば、遠くの水面に突如として知らない子供の頭が浮かんだ。
「・・・誰だ?」
金に梳けるような薄茶の髪。その子供の容姿は総て生まれたばかりのように薄く淡いながらも、確かな存在としてそこに在った。
まるで、光溢れるこの場所そのもののような。
この場所の美しいものを総て少しずつ切り取って生まれたかのような小さな存在は、空から舞い降りてきたゼロを興味深そうに眺めている。
「・・・地上で、天使が生まれるなんて聞いたことはないが・・・おいで」
呼びかけるように声をかけ、手を伸ばして招くと、初めは躊躇っていたものの、もう一度水に沈んで今度はゼロの傍に顔を出した。ゼロの座る岩に小さな手をついて、じっと見つめてくる瞳に気付いて、ゼロも更に驚くこととなる。
透明度の高い宝石の様に輝く瞳の色は左右で違う碧と蒼。本当に、この場所そのものから生まれた光の子供のようで、ゼロは思わず見惚れてしまった。
天界には美形が多い・・・いや、大抵が美しい者ばかりだが、この子供のような美しさは見たことがなかった。
「・・・天使?」
ゼロに問い掛けてきたその声も、透き通るように美しい音色。けれど、その確認の意味に気付いて、ゼロは伸ばしかけていた腕を引いた。
「まさか・・・君は」
ちゃぷん・・と音を立てて、水面が揺れる。
ふわりと水から浮き上がった子供の背には、小さいながらも黒い・・・悪魔の翼が広げられていた。
***
「ゼロ!」
呼びかけられた名前に振り返れば、不機嫌な顔をしたルックがそこに立っていた。
手には紙束を抱えていることからみて、今からまた上級天使が集まる会議が始まるのだろう。
「・・・やぁルック。で、用事は?」
「用事は、じゃない!また出席しないつもり?幾ら神のお気に入りだからって、いつまでも他人の目は誤魔化せないよ」
ゼロも勿論の事上級天使の一人だ。それも、上級三隊第一階級・熾天使と呼ばれる最高位に就いている。
けれども、会議に呼ばれて出た例はない。
それはゼロ自身が望んで今の階級に名を連ねている訳ではないという証なのだが、神に最も近いゼロを前にして、こうも正面から不平不満を告げられるのは、天界広しと言えど、このルックだけだろう。
「・・・誤魔化せなくても良いさ。こんな肩書き、なくなってしまった方が清々するんだけどね」
「だからって、こんなやり方・・・」
「・・・まぁ、後は任せた。君なら、また上手く執り成してくれるだろう?」
回廊から続く蒼い空を満足気に見下ろして、誰よりも白く美しい羽を広げ、ゼロはまた地上へと降りてしまう。
ゼロは何処までも自由だ。
ルックはそんなゼロを少し羨ましく思う。
そして、同時に想い焦がれてしまう・・・。
「毎日毎日飽きもせず・・・地上になんか何があるって」
言いかけて、ふと気付いた。
地上には何もないはずなのだ。ただ、知能を持たない生物が果てしなく長い日々を生きているだけで。
何もないのに、ゼロはいつも地上へと降りていく。今までもしばしば地上へ出向いていたゼロだが、その時の表情とは全く違う、とても楽しそうな笑顔を浮かべて。
やわらかく微笑むその笑顔は、まるで・・・。
「・・・何か、あるのか?誰が・・・居るの?」
天界よりも、穢れた地に近い間の世界に。
ルックは、持っていた紙束を放り出し、誘われるままにゼロの後を追って地上へと舞い降りた。