A*H

Angel Halo 0 −Eden−

* Eden 3 *






「天使・・・きれいな、いきもの」
穢れのない衣服、純白の巨大な翼。
初めてゼロが舞い降りてきた時、水中から見てもその美しさに大した差異は生まれなかった。
だからこそ、揺らめく湖中に居たアーティエは、危険だと分かっていながら敵である天使の前に姿を現したのだ。
天使を見たことがない訳ではなかった。
何度も何度も、無駄な争いばかり繰り返す天界と魔界の戦いを、アーティエも良く知っているから。
けれど、ゼロは他の誰よりも綺麗に見えて、一度目にすればもう視線を逸らす事も出来なかった。
「誰よりも、きれいな・・・ゼロ」
生まれたばかりと言っても、それは時間概念の緩やかなこの世界での話だ。幼く見えても、確かに他の者よりは年若いかもしれないが、実際の年齢はもっと上になる。
何も分かっていないようにも見えるけれど、アーティエはアーティエなりに考えを持ってこの世界を眺めていた。
進むことも、戻ることもなく、ただ同じような日々を繰り返すだけの世界を。
魔界に居ても暗いだけで、変化の訪れない日々に飽きていたアーティエは、ただ時間の流れだけでも感じようとずっと願い続けて、いつの間にかこの世界に昇ってきていたのだ。
いつ願いが叶ったのかは、もう覚えていない。
願い続けた間の世界に辿り着き、流れる時間を目的もなく、ただぼんやりと眺めているのが日常だったけれど。
「・・・でも、変わった」
ゼロと出会って、流れる日々の時間よりもっと楽しいものを知った。
ゼロと話をして、今自分が生きている意味をもっともっと、深く理解した。
「また、来るかな。・・・こんどはいつ、来るかな」
何度逢瀬を重ねても、離れればすぐにまた会いたいと望んでしまう。
傍にいたいと願ってしまう。
そして、いつか・・・。
「・・・ぎゅって、してもらいたい、な」
その瞬間に溶けて、消えてしまう運命だとしても。
自分自身を抱き締めるように腕を回して、小さな身体を更に縮めれば、その細い身体を抱く腕が二つ、後ろから伸びてきた。
「・・・こんな所に居た。アーティ、帰ろう?」
「・・・ぁ」
黒い軍服に身を包んだ、未来の魔王、そして旦那様とも呼べる悪魔・・・名をジョウイという。
「この湖が好きなのかい?でも魔界にも湖がない訳じゃない。もしアーティが望むなら、僕の城にこの場所を切り取って持ち帰っても構わない。ね、だから・・・」
魔界へ、帰ろうと。
生まれた時から、アーティエの嫁ぐ先はもう決められていた。次代の魔王、ジョウイの伴侶候補として。
「で、でも、ジョウイには、もう・・・」
「・・・あぁ、ジルのことかい?・・・確かに正妻はジルだけれども、悪魔に伴侶の限りはないからね」
数多くの家来や伴侶を連れているということは即ち、それ自体が権力の象徴とも言えよう。
目に見える力こそ総ての魔界において、確かにジョウイは現王ルカの次代に相応しい悪魔となっていた。
ただ、力を蓄えていても、他の悪魔たちに比べてジョウイもさほど年長者ではない。年若い悪魔は身のうちに宿せる魔力に限りを生じてしまうため、もっぱらジョウイの戦法は武器を使ったものが多かった。
この年で、その若さで次代と呼ばれるジョウイの伴侶候補とは、総てが羨まれる状況のはずなのに。
「・・・でも、僕は・・・待っていたいの」
「誰を?・・・こんな所、誰も来やしない。それよりも、僕と一緒に城へ戻ろう。・・・何なら、今すぐ式を挙げてもいい。ねぇ、だから」
帰ろうと、ジョウイに細い腕を引かれる。
「ィ・・・ッや・・・っ!」
途端に感じた激痛に、アーティエは暴れるようにジョウイから飛び退いた。自分以外の体温が、酷く熱く、アーティエの白い肌を焼いたのだ。
「・・・どういう、ことだ、これは・・・?」
暫く会わないうちに、アーティエの身体は何かしらの変化を起こしているようだった。真っ赤に染まったアーティエの腕には、ジョウイの掌のような焼け跡。同種の者に触れられて、こんな風になるなどとは聞いた事がない。
「アーティ、もしかして、君は・・・」
言いかけたジョウイの声は途切れ、そのままアーティエは地面に押し倒されるようにして庇われる。
肌に触れてはまた焼いてしまうだろうからか、布越しに感じるジョウイの体温に、アーティエはどうしてか逃げたくて仕方がなくなる。
「・・・よく、かわせたね。大した悪魔だ」
途端、バサリと空気を抱く翼の音が聞こえた。
見上げれば、金の髪を風に揺らめかせて空に留まる天使の姿が目に入る。
「誰だ・・・!?」
「名乗る必要もないよ。・・・ただ、君は有名だったね。確か・・・『ジョウイ』という名前だった」
「・・・嬉しいね。僕を知っている天使に会えるなんて」
その言葉に、空に浮く天使は少し表情を堅く変える。
ジョウイほどではないが、金の髪をした天使――ルックも天界人としてはまだまだ若い者達として数えられる。
ルックも特例の一人なのだけれど、外見で判断される事を最も嫌っていた。
どれだけ実力があろうとも、ゼロのような力を持たない限り、若くして上の座を掴めないのが天界と言う場所なのだ。何となく、馬鹿にされたような気がしたのだろう。余裕で笑みを浮かべるジョウイを睨みつけ、手の平に練り込んだ風を集めて、圧縮する。
「これでも僕は座天使だ。魔界の事情も、多少は詳しくないとね・・・次代の魔王!」
言い切ると同時に、ルックは激しい竜巻をジョウイに向けて放つ。ルックの場合、風に関する力を操る能力が桁外れに高かった為、今の地位を特例で認められている事もある。緑色に輝く右手の甲を更に輝かせて、紙一重で風を避けて走り回るジョウイを追い掛け回していた。
「・・・ッ!」
ジョウイも、アーティエを腕に抱えながら逃げ回るのは、確かに不利な状況だった。
風使いを相手に空中で勝負する訳にもいかない。けれど、ジョウイの握りしめた抜き身の剣は、相手に近付かなければ振るうことすらできない。
「このままじゃ・・・!」
「どうしたの?・・・まさか、これで終わりだなんて言わないよね」
避けようとしたジョウイの腕の中で、何故か突然アーティエが身じろいだ。
何かを我慢出来なくなったように、抱えられていた腕から逃げ出し、精一杯の声で叫ぶ。
「もうやめて!これ以上・・・壊さないで!!」
ルックの風に、あの美しかった湖は見るも無残に破壊されていた。
木々は倒され花々は潰れ、澄んだ水面は崩れた木々の残骸と粉塵に、醜く濁っていく。
ゼロと共に過ごした場所が、こんな風に壊されていくのを見たくない。
「・・・そもそも、君が消えれば、総て終るんだよ」
ルックは何も、ジョウイを倒しにやって来た訳ではない。
神からの勅令。『悪魔アーティエを殺す』。それを実行しに下界へ降りてきただけなのだ。ジョウイとの戦闘は、明らかに予測されていなかった予定外のもの。
アーティエを消す事について、果たしてそこに正義はあるのかと葛藤もしたが、本人を前にすればもう憎しみという感情しか浮かんでこなかった。
ゼロを誘惑し、天を裏切らせた、憎むべき悪魔。
「・・・だから、君が消えれば・・・それで全部終るんだよ」
向けられた手の先は、ジョウイの腕から逃げ出したアーティエ。
「うあぁあ!!!」
けれど、直撃を受けて絶叫を上げたのはアーティエではなく、ジョウイであった。
黒い羽にまともに天使の力を浴びて、恐らく暫くは飛ぶことも不可能だろう重症だ。
「・・・ジョウイ・・・!」
「・・・っ逃げ、るんだ!君に、戦う力はない・・・!魔界なら、相手も追って来る事は出来ない・・!」
最後の力を振り絞って、ジョウイは湖面に門を開く。地面の底に深ければ深いほど、魔界への門は開きやすい。
「飛び込んでアーティ・・・!このままここに居れば、君は本当に消されてしまう・・・!」
「で、でも・・・僕は・・・」
今ここで魔界へと戻れば、きっともう二度と、アーティエはこの間の地を訪れることは出来なくなるだろう。
この世界に戻ってきたら、今度こそ殺される。
魔界に居れば、天使が訪れることは出来ないから。
「・・・会えなく、なっちゃうの?・・・ゼロ」
もう二度と。





***





「・・・アーティ・・・?」
声が、聞こえた気がした。
天界とは思えない程の深淵の中、閉じていた目をふと、開く。何もない世界に何が映る訳でもないが、ただはっきりとした自分の意志が、ここにある。
「『逆らう者総てに制裁を』。『裏切り者には死を』・・・か。理由を問い質したりはせずに、ただその事実だけを責めて、落とし込む」
一度地に堕ちた者はもう二度と上がる事は出来ない。
ゼロは非公式に堕とされたのだから、その範囲には含まれていないだろうが。
「・・・これ以上、思い通りになって堪るか」
非公式でなければ、この事実が公式であればいいのだ。
神だけの目に留まらず、この暴挙を天界総てに見せ付ければいい。
衣服が破れるのも構わず、身体を縛る鎖を引き千切る。純粋な物理力だけの拘束なら逃げる事も不可能だっただろうが、天の光の力を利用した拘束具は、この闇の中で殆どその効力を失っていた。
同じく、普通の天使ならばこの闇に堕とされた時点で力を失うだろうけれども、ゼロの力は何も光だけを元にしているのではないから。
「僕を甘く見ないことだ」
解放した翼を大きく広げ、落ちた距離だけ上に昇る。同時に手の平に力を集めて、思いっきり打ち込んだ。
「な、何だ!?今の爆発音は・・・!」
「断罪の間の方から聞こえたぞ!あの地下・・・まさか、脱走者が出たとでも言うのか?!」
衛兵たちが瓦礫の中を覗き込むと同時に、バラバラと崩れる部屋の中央に、神々しいまでの巨大な翼を広げた天使が立っていた。
普段は封印している力総てを解放し、圧倒的な存在感で、その背に生えた六枚の羽を大きく広げてみせる。
「六枚羽・・・!し、熾天使・・・?!」
「熾天使は今やもうお一人・・・ゼロ様しかいない筈だ・・・!!まさか、・・・あの方が・・・!!?」
ざわめく声に満足そうに笑って、軽やかに瓦礫に埋もれた床を蹴り上げる。同時に高く羽ばたいて、誰よりも高速を誇るその翼で、そのまま一気に地上を目指した。
「お、追え!追えー!!反逆者が逃亡したぞ!!断罪を受けずに逃げ出した!堕天使だ!!!」
神を裏切った者へ与えられる堕天の称号。
それは今までゼロをこの場に縛り付けていた『熾天使』などという肩書きよりも、よりもっと気高い位に聞こえた。
「神、レックナート・・・僕はあなたの愛など一生理解出来ないだろう。そもそも、本当の愛を知らないあなたが、愛を理解しているとは思えないが」
天界一つ、消し去る事などゼロにとっては不可能なことではないだろう。けれど、天界に対してそこまでする理由も恨みもない。
信じられなくなったのは、ただ『神』の存在だけだ。
「・・・アーティ・・・!」
あの小さな存在が無事で居て欲しいと、ただそれだけを心から思う。
けれどそれは祈りではなく、切ない限りの願いだ。
空気を切り裂くような勢いで空を割りながら、漸く見えてきた地表には、舞い上がる粉塵の黒い霧。
「・・・まさか、ルック・・・?どうして、この場所を・・・」
その時突然、蒼かった空に暗雲が漂い始めた。ただ湖の上空を覆っていく雲に、禍々しい魔の力を強く感じる。
この力は、アーティエのものではない。
「他の悪魔がいるのか・・・?まさか、連れ戻しに・・・!?」
そもそも、アーティエのような弱い魔が、一人きりで間の世界をうろうろしている事自体が珍しいのだ。いつ他の天使や悪魔に見つかり餌食にされてもおかしくない。
近くで過ごすうちに気付いていたのだが、アーティエは悪魔として珍しく、戦う力を何も持っていなかった。
魔力は低い方ではないだろうが、それを扱う力をまだ手に入れていない。
いや、ただ必要ないと思っているのか。
あんなに優しく微笑む笑顔に、何かを傷つけることなど出来ないように思えた。
たとえ、自分に刃を向けられたとしても。
抵抗することで周りが傷付く位ならば、アーティエはきっとその刃を身に受けるだろう。
「アーティ・・・アーティエ・・・!!」
想いは音となり風に混じり、呼び集めていたルックの手の平の上で弾ける。
「・・・!ゼロ・・・どうして、ここへ」
驚きを隠せないルックを一瞥しただけで、ゼロは止まらずに湖の辺に立ち竦むアーティエだけを目指して降下する。
「ゼロ・・・!」
近付いてくるとてつもない力を持った天使に、ジョウイは言葉を失っていた。この六枚羽の熾天使こそ、アーティエが待ち望んでいた相手だというのか。
触れられれば消えてしまうと分かっていながら、招くように両手を天に伸ばして空に飛び上がる。
行かせてしまう訳には、いかない。
「アーティ・・・!」
「・・・・っあ!!」
アーティエが火傷を負うのを承知で、ジョウイはその剥き出しの素足を掴んで引き止める。
痛みと熱さによろめいた身体を、腕を伸ばして受け止め、ジョウイはそのまま開ききった門の中へと飛び込んだ。
「や、だ・・・やだよ・・・!ゼロ・・・―――!!」
伸ばした手が、掴むことも出来ないと分かっていてゼロを求める。
天界人に魔界の門は潜れないと分かっていて、それでも。
「ゼロ!無茶だ・・・!!」
ルックの声が遠くで聞こえる。けれど、もう今更止まれない。
扉の向こうの闇に消えた二人を追って、閉まりかけた魔界の中へ、ゼロも飛び込んだ。




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