1、邂逅―KAIKOU―
静寂せし教会に響き渡る、神父の歌声。
誰を想うかその歌は、棺に眠る闇の者へと捧げられる。
神に仕える身で在りながら、その身を堕とし穢してまで。
心のままに、己の愛を歌に込めた。
『あなたは神を信じますか?』
聖職者たる者の導きし声
誰にでも平等なる愛を捧げて下さると。
だが
我々の父は
愛すべき規律を設けた。
何も生み出さない愛を
決して交わしてはならないと・・・・
愛に価値など無い
そう言われた我等が偉大なる父へ
我、今闇に誓わん。
喩えこの身滅びようとも・・・・・・
この愛を、貫かんと。
***
「では、お願いします神父様・・・」
深々と頭を下げて、声を沈めた。
「・・・承りました。それでは、行ってきます」
真っ黒な長袖の神服を纏い、黒く透けるクリスタル・ロザリオが胸元に輝いている。中央に鈍く光る石は宝石だろうか。
一見して価値のあるものだと気付いた幾人かの町民は、ゼロ本人より揺れるロザリオを目で追っていた。
だからこそあまり気付く者はいなかったけれど、恐らく丹精であろう顔はまだ誰も凝視していない。少し眺めの漆黒の前髪と薄いフレームの銀眼鏡で意図的に顔を隠しているようにも見えるその奥から、見たことも無いような不思議な色をした瞳が覗いている。
近くに立てば、町長など彼の胸ほどまでしか届かないほどに背が高い。
口調こそ改まっているものの、その容姿は神父らしからぬ・・・いや、それこそ人々が恐れ嫌う異形のモノそのものの姿で。
「見たかい、あの瞳の色を」
「眼鏡で誤魔化そうとしてんだろうが、無駄だな。・・・おぉ、怖い」
こそこそと話す言葉は、あえて彼に聞こえるように告げているのだろう。ちらりと振り返った彼の視線を受けて、陰口を言い合っていた町民は笑いを含んだような声で怯えるフリをしながらそそくさと立ち去る。
その容姿が故にこんな陰口を叩かれるのはいつものことだ。
沢山の非難の目に、少しだけ溜息を零しつつ、青年は町を後にした。
「にしても・・・うさんくせぇなぁ」
「本当に信用できるのかい?」
「・・・・わからん。が・・・、頼むしかなかろう」
さっきまで頭を下げていた町長は、折り曲げた腰を叩きながら身体を起こした。皺枯れた皮膚の下で、細い目を更に細めて小さく笑う。
「これで、彼が死んだとしても立派な殉職。・・・・成功すれば、我々の命は永遠に失われる事もないんじゃからの・・・」
***
ことの始まりは数百年にも前に遡る。
町では非常に人気のあった一人の神父が、何者かに殺された。
いや、殺されたのではなく『喰われた』のだという。
その神父は身体は弱かったけれども、代々この町に続いてきた教会に身を置く者で、誰からも慕われて、誰にでも救いを与えていた。
そんな折、突然町に不思議なことが起こり始める。
町の働き手である若者達が少しずつ、姿を消していくのだ。
何故か、町から少し離れた廃墟へと誘われるように向かったまま。
だが、このまま人間が消えていくのを黙って見ている訳にはいかない。
それを訴えた町民の願いを聞き入れて、神父は一人、廃墟へと向かっていった・・・けれど。
やはり彼も他の者達と同じように、もう二度と帰って来ることはなかったのだという。
しかし、何があったのかは誰にも分からないが、それ以降人が消えて戻って来なくなるということは無くなった。
そうなれば、悪いことや都合の悪いことは忘れようとする人々の故に、この事実はゆっくりと記憶の中から消え始める。
知っている者は知っている物語だが、これが本当に『事実』であったことなのかなど、誰も彼もが忘れていた。
そんな、今。
この『吸血鬼伝説』は・・・。
数百年経った今、再び蘇ってしまったのだ。
***
「相変わらず嫌われているな・・・。まあ、こんな見た目の神父じゃあ、誰も信じようと思わないか」
当人でさえそう思ってしまうほど『神父』という職が似合わない彼にまで依頼が来たということは、本当に藁をも掴む願いなのだろう。
聞いた話によると、昔話と同じように働き手の若い男女ばかりが攫われると言う。それ以来怖がって家から出て来ようとしない若者ばかりで、町の仕事が全て進まなくなってしまったらしい。
「別に若くなくても、それ位なら他の者達でも出来るだろうに・・・」
悪態を吐いてもここは暗い森の中。誰も聞き咎める者はいない。
けれど、あまり深くも無い筈なのに、動物の気配さえしないこの暗闇。
そこへ差し込む月明かりに気付いて、森を抜けた先にそれは建っていた。
「・・・廃屋かと思った。ここか?」
鋭く光る鉄の門に絡み付いた薔薇茨。その門は朽ち果てているものの、侵入者を拒むように厳重に封印されている。けれど中に入らなければ、本当に人を襲う吸血鬼が居るのかどうかも確かめられない。
「・・・仕方ない、壊すか」
ゼロはあっさりとそう決め、試しに手に少し力を込めて触れてみると、何故か門はまるで彼を招き入れるように、左右に開いた。
「何だ・・・?鍵なんて掛かっていなかった?・・・じゃない、これは・・・」
透き通るような、風がゼロの神服を翻して吹く。
「中へ・・・誰か、呼んでる・・・・?」
不気味極まりない朽ちかけの廃墟。けれど、不思議と恐怖感は無い。
両の足は、まるで我が家の中の様に自然に前へと動き出す。
「・・・・誰だ・・?」
門を抜け、表の廃墟が嘘のような美しい庭を通り、薔薇のアーチを潜り抜けて辿り着いた古ぼけた館の前。
硬く閉じられた重厚な扉も、今度は彼が前に立っただけでその見るからに重々しい扉は静かに開かれた。
明かりは、窓から差し込む月明かりのみ。
音は・・・・。
「・・・!?」
歌が、聞こえた。
『あなたは神を信じますか?』
聖職者たる者の導きし声
誰にでも平等なる愛を捧げて下さると。
この歌は、聞いたことがある。
知らないはずなのに。
神父はその歌の続きを知っていた。
「・・その後。その聖職者は、神を冒涜してまで愛を求めた・・・。僕も、そんな愛を貫ける聖職者になれたら・・・いや、なりたいと思っているよ」
階段の端に座り込んでいた影が、驚いた様にこちらに視線を向けた。
月明かりの下で、透けるような金の髪が揺れ、白い肌が浮き上がる。
着ている物も、飾りなど全く無い真っ白なドレスワンピース。
「せいしょく・・・しゃ?」
声だけで性別の判断はつけ難い。
男でも女でも、どちらとも取れる澄んだ音色のような声。
さらりと流れる絹糸のような金の髪に、光を集めたような瞳が、ぼんやりと彼の姿を映して、訝しげに首を傾げる。
「あぁ・・・こんな見た目でも、一応神父なんだ。・・・君は?」
怖がらせないようゆっくりと近づいて、目の前にしゃがみ込んだ。
が、人影は近づく彼を脅える様子もなく、ただ薄い氷のような、虚ろな瞳で見つめ返してくるだけ。
そこでやっと気付いた。相手がまだ、幼い子供であることを。
そして、向けられた瞳が、左右色違いの不思議な色をしていることに。
「・・・おぼえて・・ない」
「どこから来たとか、何でここに居るのか・・・それも?」
「・・・わからない。さっき、目が覚めたばっかり・・・だから」
ぐったりと座り込んだままの細い身体に、捨て子か、攫い子かと考える。見目は驚くほどに整っている様子を見ると、後者の方が確立は高いか。
知らない人間が近づいても、立ち上がる気力すら無い様子に、仕方なくゼロは自分の腕に、その幼い身体を抱き上げた。
「ひゃ・・っ!な・・何・・・?」
「このままここに座っているのは冷たいだろうと思って。・・・名前は?」
びくんと、抱き上げた身体が震えた。
「な、まえ・・・・?」
「あぁ、僕はゼロ。君の名前は?・・・へぇ、結構内装は綺麗なんだな」
勘で歩いたのにも関わらず、開いた次の扉は清潔なシーツの掛けられたベッドが置いてある寝室で。
「お願い・・・!下ろして・・・!!」
部屋に辿り着いた途端子供はそう叫んで、逃げる様にゼロの腕の中から飛び降りた。
「ちょ・・・・・、何もしないって・・・」
「だめ・・・だめなの、近づかないで・・!!」
何かに脅えているその様子は、必死に視界を遮っている。
何となくその行動で、ゼロには目の前の子供が何者なのか理解した。
「・・へぇ・・・・?本当に居たんだな」
「え・・・?」
「そもそも僕は君が目的で、こんな森の中まで来たんだよ」
首に架けていたクリスタル・ロザリオを外すと、ゼロはそれを近くの窓から躊躇いもなく放り投げた。
「・・・・どうして・・・?」
「いや、嫌いなんだろう?君がその『吸血鬼』かもしれない・・・なんて、それはまた別の話で、ね」
俯く胸元から覗く白い肌に、ふとゼロは赤い傷を見つけた。
「ん・・・・?その傷・・・・」
少し緩んだ胸元の皮紐を、ゼロは慣れた手付きで簡単に肌蹴てしまう。
元々襟元の広い服を纏っていた子供の肌は、露になったその部分だけ痛々しく火傷の痕を残していた。
「あ・・・・」
白い肌にはっきりと残る、十字架の痕。
焼き付けられた印のようで、見ていてとても痛々しい。
「十字架が嫌いなのは、これの所為か・・・」
ふぅ・・・、と一つ溜息を零したゼロは、子供・・・どうやら少年のようだが、彼を降ろしたベッドの縁に座って言った。
さり気なく近づいたゼロだけれど、少年のさっきまでの脅えは何処かへ消え、きょとんとしてゼロの言葉を大人しく待っている。向けられた一対の綺麗な瞳が、何故かゼロの苦笑を誘った。
「・・・君は、僕が怖くない?」
苦笑と共に続けられたゼロの言葉に、少年はどうしてかと問いかけるように首を傾げて見せた。
「だって・・・君は、僕と同じ聖職者に・・・怖い目に遭わされたことがあるんじゃないのか?・・・僕が何もしないとは、限らないんだよ?」
少し意地悪な言葉も混ぜて問いかけた声に、少年は小さく首を振る。
「・・・ううん、怖くない・・・僕は。・・・ゼロ、こそ・・・怖くない?」
彼も、ゼロが自分の正体に気付いていると分かっている。だからこその問いかけなのだろうけれど、ゼロも同じように小さく笑って首を振った。
「いいや、まさか。こんなに可愛い子だとは思わなかったけど・・・それ以上に、僕には君が町長の言っていた吸血鬼だとは思えない。・・・だから、確かめる為に暫く、ここに居てもいいかな」
「・・・ここに?いるの・・・?ゼ、ロ・・・?」
「そう、僕がここに。・・・勿論、君が迷惑でなければ・・・の話だけれど」
「・・・・・」
余りにも唐突過ぎたか。
けれど、出来ることならゼロはあの町へと戻りたくはなかった。
沢山の、冷たい非難の目を受けるよりもよっぽど、ここの空気は暖かい。
「・・・・あのね、僕・・・『アーティエ』」
暫く考え込んでいた少年は、ふと綺麗な顔に朱色を乗せて、そっと名前を囁いた。それは、きっと先程の問いへの答え。
「アーティエ?・・・アーティ、綺麗な名前だ」
透き通るように白い、無垢な子供。
町民達の言う穢れた生き物とは程遠いこの存在が、ゼロにはどうしても誰かを傷つけているなんて思えなかった。
どうしてか、消え果てた記憶の奥から、惹かれてしまうその姿に。
そして・・・どこか、懐かしさを覚えてしまうその瞳に。
「・・・これから、暫くお世話になるよ」
「・・・・うん・・・っ!」
アーティエは名前を呼んだゼロの瞳を見つめ返して、春風を呼び込むような笑顔を浮かべてみせる。
きっとこれは、出会うべくして出会った奇跡。
我、今闇に誓わん。
喩えこの身滅びようとも・・・・・・
2、契約―KEIYAKU―
細い月が沈み、暑い太陽が昇り始めた。
こうして、当然の様にまた眩い朝が訪れる。
誰も寄り付かない森の奥に建つ廃墟の中の一室。
巨大な天蓋付きのベッドの上に、長身の身体を真っ白なシーツに埋めるようにしてゼロは深く眠っていた。上着の黒い神服だけは脱いで、中に着ていた白い長袖と黒いズボンだけという格好だ。
「・・・・ん」
朝の日を受けて、案外長い睫が微かに震える。もうそろそろ目覚めが近いのだろう。
「・・あれ・・?アーティエ・・・・?」
柔らかな羽枕に埋めていた頭を起こし、滑らかな髪が丹精な顔を包み込んだ。
まだ半覚醒のゼロは、自分の隣に体温が感じられないことに気付いて、目を擦り身体を起こす。
昨晩眠った時は確かに傍に居たはずなのに。
いや、そうではなく・・・ゼロがどこかへ行ってしまうなどと心配して、アーティエの方が全く離れようともしなかったのに。
仕方なく隣に招いて夜を迎えたのだが、今はその姿の跡形すらない。
「何処へ行ったんだ・・・・?」
長身のゼロでも三人は眠れるだろう巨大なベッドから降り立って、外していた眼鏡を掛けて部屋を見回してみる。
この館は外見に似つかわず、内装はとても綺麗で美しい。
何処にも微かなヒビさえ見当たらず、廃屋には当然の埃臭さも微塵も感じられないが、流石に照明用の燭台に火を灯す為の油はカラカラに乾涸びていた。
だから、今目の前に広がる視界に、初めて気が付いたのだ。
「まさか・・・。これは・・・」
昨夜は暗くて何も見えなかったから分からなかったが、部屋の端や壁、窓際に何気なく置いてある美術品も、巷では行方不明の最高級な物ばかり。中には、ゼロ自ら探し求めていた品物まで揃えてあって、暫くその美術品に心を奪われていた。
手入れされているとは思えないのだが、どれ一つを眺めても微かな埃さえも積もっていない。分厚い布の覆われた窓からは、日の光が入り込む余地もなく、日焼けの心配はないだろう。保存状態は最高だった。
「これは誰が・・・。まさかアーティエ?・・・いや、あの子は僕と会った時『さっき目覚めたばかりだから』って言っていたな」
それなのにどうだろう。
この塵一つない行き届かれた掃除の仕方は。
「他に誰かが居るとでも言うのか・・・・?まさか、そんな訳が・・・」
何故そう感じるのか、それはゼロにもわからない。けれど、なんとなくそんな感じがしたのだ。それ以上に色々な謎はまだ沢山残っているが、このままここでじっとしているのもゼロの性に合わない。
ベッドサイドに畳んで置いてあった神服を掴むと、ゼロはそのまま部屋を後にした。
***
「・・・・どうなっているんだこの館は」
何処を歩いても手入れの行き届いた内装に驚くことしか出来ないゼロだが、それ以上の謎がこの館を覆い尽くしていた。
昨日はまるでこの館の主のように行くべき先が見えたのに、今は全く何処に向かって歩いているのかすらも分からない。
「僕が居たのは二階のはず。それなのに、階段を降りたここは・・・」
一階から吹き抜けになっているホールを見下ろして、各階の段数を数えてみても、この場所は三階としか思えなかった。
「迷う・・・いや、迷わされているのか?・・・でも、何の為に?」
尋ねようにも、相手が居なくては訊くことも出来ない。
「何処にいるんだ、アーティ・・・」
諦め半分、溜息を零して、最も近くにあった扉に手をかけた。
「あ、ゼロ。・・・おはよう」
「アー・・ティ・・・・・?」
まだ日も高いのに目覚めているとは・・・・と、考えてから気付く。
この部屋には、窓がないのだ。これでは苦手も何もない。
そして、少しだけ冷たく湿っている空気に、ゼロはまさかと思いつつも問いかけてみた。
「・・・まさか、ここは地下・・・じゃない、よね?」
「?・・・地下、だよ?・・・それが、どうかしたの?」
何でもないことのように返事を返されて、ゼロはもういい加減諦めた。
この館にはきっと迷いや惑わしの術がかけられているのだろう。昨夜ゼロが迷わなかったのは、腕にアーティエを抱いていたお陰か。惑わしの魔法は恐らく、この館に眠る美術品・・・いや、主であるアーティエを守る為のものなのだ。そう考えれば多少迷うことも仕方ないと思える。
「でも、よかった・・・ゼロ、ここにいてくれた」
嬉しそうに走り寄って来るアーティエは、本当に幸せそうに微笑んで、ゼロの姿を瞳に映していた。
警戒心など、微塵も感じられない。
本来ならば。聖職者と吸血鬼は相対する存在。
決して同じ場所に存在することなど出来はしないのに。
「・・・ねえアーティ。聞いてもいいかな」
「・・・?」
視線を合わせる為に床に膝を付いて、きょとんとゼロを見つめ返す相異の瞳を覗き込む。
「アーティエはずっとここに・・・一人で、住んでいたのか?」
アーティエが吸血鬼であること以前に、この館は所謂宝の山だった。だからこそ財を狙う賊が攻め込んで来ていてもおかしくはないのに。
「・・・う、うん・・・、そうだと、おもう・・・」
「『思う』?・・・他に誰か、人がいたことがあるのか?」
ゼロの問いに、アーティエは小さく首を振った。昔のことなどはっきりとは覚えてはいないが、今は誰も居ないのは本当だから。
「でも・・・『ヒト』は嫌い・・・」
「アーティ・・・?なら、何で僕を招いたりなんて・・・」
本来、人間の血を主食とする吸血鬼は誰も彼も人を求め、誘惑し、堕落させてから餌食にするものだ。それなのに、餌である人間をアーティエは嫌いだという。
「だって・・みんな、どうしてか僕の・・・血をほしがるの。だから、守らなきゃいけなくて・・・でも」
アーティエが思い出せる限りでも、この館へ来た人間は少なくない。どうやら財の存在までは知らない様だが、訪れる人間は多く居るようだ。
「・・血、だって・・・?」
吸血鬼の血液は、不死の薬となるという。
例え、アーティエが人を襲わなくとも、人間はアーティエを殺そうと襲いかかってくる。だから、今までアーティエは・・・・・。
「でも・・ちがう気がするの。ゼロは・・・『ヒト』とはちがう、気がするの」
だから、突然のゼロの提案を受け入れてくれたのだ。
「でも、僕もききたかった。ゼロは、どうしてここに来たの・・・?」
違う。・・・これは、違う。
アーティエの問いかけを聞いて、ゼロは途端に真剣な表情を浮かべ、真っ直ぐアーティエを見つめ返した。
一瞬何かを思案していたゼロは、問いかけるアーティエの瞳を覗き込むように、そっと顔を近づける。
「はっきりと・・・・本当のこと言ってあげようか」
「え・・・?」
悪戯混じりに囁いたゼロの言葉に、アーティエの身体が少し強張る。
まだ昨夜初めて顔を合わせただけのゼロだが、こんな顔はしないだろうと信じきっていた。
その顔は、アーティエが見慣れてしまった人間の表情。
笑み。嘲り。・・・嘲笑。
「ゼロ・・・?」
警戒心もなくゼロの正面に立っていたアーティエの身体が微かに逃げを打ち、その腕を軽く引き止めて、ゼロはもう一度言う。
「教えてあげようか。僕がここに来た理由・・・」
薄い硝子越しの紫電の瞳は、意地悪い笑みを浮かべたままで、アーティエは愕然としながらも、気丈に言い返した。
「ゼロが・・・何て言っても、僕は、僕を守らなきゃいけない・・・だから!」
「・・・あぁ、それでいい。それでいいんだアーティ。誰かを傷つけることが怖くても、悪意の剣を黙って受けることはない」
アーティエの拒否の声を聞いて、ゼロはほっとしたように表情を柔らかく変化させた。少し力を込めて掴まれていた腕も、そっと添えるだけの力に変わる。
「え・・・?ゼロも・・僕の血をねらってきたんじゃ・・・?」
「結論を言えば、そうなる。・・・でも僕も偶には自分の意思で選びたい」
微かに怯えつつ、目の前で微笑むゼロを見つめるアーティエの手を握り締めて、囁いた。
「だから、僕は自分の意思で君を守りたいと思った。・・・駄目かな?」
ゼロがここに来た理由は、凶悪な吸血鬼の討伐。そしてその死体ごと町へ運んで来る事だった。
けれど、『吸血鬼』は全て死すれば身体は残らない。
灰となって形を崩すというのに、それを欲しがる町民達の考えが、ここでようやくゼロにも読めた。
「でも・・僕は・・・、ゼロとは、ほんとうは・・・」
「もういいよ。人間とか吸血鬼とか神父とか。そんな細かいことは関係なくて・・・ただ、君の傍に居たいと思ったんだ」
静かに神服を揺らして、ゼロは立ち上がる。
「僕は今まで教会の指示に流されるだけで生きてきた。でも、そこには僕の意思なんて何処にも無くて・・・。だけど、君と出会えて、自分の望みを初めて持てた気がする。僕は町の人間より、君を信じたい」
聖職者として、神父としてあるまじき言葉だということは分かっている。そこで、ゼロは唐突にあの曲を思い出した。
ここで初めて聞いた、アーティエの声。
記憶の底に沈んでいる、懐かしい曲。
「だから僕が望む事を選んだ。喩え、この身が滅びようとも、僕は・・・」
「ゼロ・・・・」
アーティエもそのことに気付いたのか。少し悲しそうに名前を呼ぶ。
「アーティ・・だからもう、独りで泣かなくてもいい。傍に居るよ、ずっと」
それは、神に背く行為。
「だから、君も僕の傍にいて・・・」
背徳者になろうとも。
この冷たい手に、初めて掴んだ温もりを。
手放したくないから。
***
教会に飼われるようになって、一体何年が過ぎたのだろう。長かったようで短かったようで、ゼロはあまり覚えていなかったけれど、初めて聞いた声だけは何故か忘れることが出来ず、今も鮮明に覚えている。
『・・・それが、君の願いなんだね』
どこか悲しげな色を含みながら、ゼロへと問いかけてくる言葉。
生憎、自分が何を願ったのか、それは覚えていない。
この日がいつだったのかも、自分は何をしていたのかも、意識の最奥に眠るこの声のみが、ゼロの持つ記憶として一番古いものだった。
けれどこの声の持ち主を、ゼロは良く知っていた。
あの記憶から何年経っているのかも分からないが、その声の質を変えることもなく、常にゼロへ語りかけてくる声。
『次の仕事だよ。ゼロ』
逆らうことを許されない、最高司祭の言葉。
普通の神父では謁見することも出来ないだろう神の御子に、ゼロはどうしてか声を掛けられることが多かった。・・・いや。そのルック以外、ゼロに声を掛ける者など居なかったという方が正しいか。
別段ゼロが何をしたという訳でもないのだが、その容姿故に身を置く教会の中でゼロは明らかに異質だった。
漆黒の黒髪は、まさに闇を切り取ったように深く、両目に浮かぶ紫電の瞳は拘束の力を持ち、本来人には現れぬ独特の虹彩に彩られていた。
そうやって虐げられて尚、ゼロが教会に身を寄せているのには訳がある。
普段は手袋で封印しているが、彼の右手に宿る力はあらゆる物質を破壊・消滅させる力を秘めていた。
唯一つ消せないのは聖性物のみという特殊な力だ。
心臓に白木の杭を打ち込んで動きを止めた吸血鬼は、ただ眠っているに過ぎない状態で、杭さえ抜いてしまえばまた心臓は再生され蘇る。
ゼロの力は、そんな吸血鬼の再生力さえ及ばないほどの圧倒的な力で、彼らを消滅させることができたのだ。
そんな彼を放っておく教会ではない。ただでさえ吸血鬼を消滅させるほどの聖性物などそんなに数もなければ、人外の獣に立ち向かえる神父もそうそう居ないのが現実だ。
『・・・存在理由がある。それだけで十分救われていると思えばいい』
そう告げる彼の声は冷たいけれど。
利用されていると解っていても、ゼロには他に身を寄せる場所などない。
だからこそ吸血鬼退治など今まで何とも思わず、濃い返り血を浴びながら、ただ数だけをこなしてきた。
教会の考えなんて、ゼロにとってはどうでもいいことだ。
神を信じているから、この道に立っている訳ではない。
他にやるべき事など思い当たらないし、ただそう望まれていたから・・・。
数年前・・・いや、数日や数時間前の記憶さえおぼろげになることもあるゼロにとっては、ただ名前と地位を確保してくれる教会は確かに庇護してくれる対象になりうるのだ。
『君は・・・神に愛された存在なんだよ』
普段冷たい色を映している司祭の瞳は、何度目かのその言葉を継げる時だけ・・・少し温かみを増して、綺麗な碧色に染まるから。
誰かから受ける、暖かな視線を、ゼロはそれ以外知らなかった。
だから、アーティエと出逢って知った暖かさは、他と比べ物にならないほど失い難い温もりで。
「・・・傍に居て、ずっと君を守るよ」