3、覚醒―KAKUSEI―
誓いの言葉を立てた日から、あっという間に数日が過ぎた。
ゼロが来たばかりの頃は、ぼんやりしていることも多かったアーティエだけれど、最近は良く話し、良く笑い、そして柔らかく触れてくる。
それでも一日の殆どを眠って過ごしているアーティエは、殆ど地下から出てくることはなかった。ゼロに合わせて活動時間を昼にずらしているからか、日中は常に暗い地下に篭っていることが多い。
「起きていても篭りっきりじゃ、意味なんて無いような気がするけど・・」
そして気付いた。アーティエは、食事というものを全くしない。
大抵寝ているか、ゼロの傍で微笑んでいるかそのどちらかだ。
でも、それだけじゃない。
「・・・どうして、僕も同じなんだ?」
ゼロもこの館に来てからというもの、一度も食事らしい食事を摂った記憶がなかった。最初の頃は緊張で腹が減らないのだと思っていたけれど、この数日でそうではないと思い知らされる。
その不思議と同じくして、ゼロもこの館で迷うこともなくなってきた。
きっと、ゼロのことも館が認めたのだ。アーティエと同じように。
敵ではないのだと。
「まさか・・・」
この館がおかしいのか、それとも自分がおかしくなってしまったのか。
自分の考えに自嘲しつつ暖かい日の昇る真昼の庭を通り抜け、ゼロはふと閉ざされた鉄の門まで歩いて来ていたらしい。
あの日、ゼロが招かれるように通り抜けた門は、また再び頑丈にその錆びた鍵で閉ざしていた。まるでつい最近開いたとは思えないような、茨を絡ませたままの姿で。
「・・・開かない。どういう・・・ん、あれは・・・?」
外に広がる森の出口に、幾人かの人影を見つけた。
それぞれにゼロを指差して、何かを喚きながら近寄ってくる。
「・・・ほら、やっぱりそうだ。あの時の神父だ。生きてやがった」
「うさんくせえって思ってたけど、やっぱりそうか。お前、吸血鬼とグルなんだろ?どっから見ても、人間じゃねえしな!」
「・・・は?」
一瞬言われた意味が分からなくて、ゼロは間の抜けた声で聞き返してしまった。それが逆に彼らの逆鱗に触れたらしい。
「『は?』じゃねえだろ神父サマ?お前、自分の役目忘れたのか?」
「中々戻って来ないから、様子を見に来たら、これだ」
「殺して連れて来いって言われてんだろ?それが神父の仕事なら、最後までやれつってんのに・・・・よッ!」
三人程居るだろうか。どうやらゼロが依頼を受けたあの町から来た少年達らしいが・・・そのうちの二人が、勢い良く石を投げつけてきた。
「・・・っ!」
殆どが閉ざされた門にぶつかってゼロまで届かなかったが、当った拍子に砕けた破片が、勢い良くゼロの額に当った。
痛みを感じて触れた額に、流れる赤い血・・・。
「・・・ぁ・・・、ッ・・!?」
白い手袋を穢したその赤い色に、ゼロは一瞬目を回して目の前の門に寄りかかる。その様子を少し離れた所で見ていたらしい少年達は、当たり所が良かったのかと嬉しそうな声を上げて、ゼロの元へと近寄って来た。
その姿を視界に映そうにも、幾つもの様々な場面が目の前に現れては消えていく。記憶にない筈なのに鮮明すぎる映像の断片に、ゼロは頭を押さえ込んだまま俯いた。
「この門さえ開けば殴ってやるのによ。あーあ、残念だな」
「なんだお前、かすり傷じゃねえか。そんなので倒れるほど弱いのか?」
嘲る笑い声に、ゼロは俯いていた顔を上げようとした。同時に、カシャンと軽い音が響いて、足元に何かが落ちる。
「ほら見ろよ、この不気味な・・・目・・・う、わ・・・」
視線の合った少年が、ニヤ付いていた表情を驚愕の色に染めて、握っていた鉄棒を地面に落とす。
「・・・ちょ、オイ?!マズイ・・・に、逃げろ!」
「お、覚えてろよ!」
「・・・つ、何だ・・?」
ゼロに何をしたという意識はないが、眼鏡の外れた視線が絡んだ瞬間彼は真っ青になって呼吸を忘れたように突然倒れたのだ。
残された少年二人は、倒れた仲間を抱えるようにして慌てて町の方へと戻って行った。
「・・・また、使ってしまったか。それに・・・どうしたんだ、僕は・・・?」
微かに朦朧とする身体を何とか門で支えて、ゼロは深い息を吸う。
実際、怪我の痛みより頭痛の方が酷い。
顔を顰めたまま、足元に落ちた眼鏡を拾う。
「・・・・人間じゃない、か。・・・そうかもな」
ゼロは暫く、門に寄りかかった体勢のままで、明るい空を流れる雲を眺めていた。
アーティエと共に過ごす時間は穏やかで、ゼロにはとても過ごしやすい空間だったけれど。それは、普通人間には出来ない行為なのだろう。
この門の中に居ることが、その証。ただガラスが嵌められただけの銀眼鏡も、右手を包む手袋も、その封印の一つ。
「・・・僕は」
人間にはあるまじき色を宿し、人間ではあり得ない力を秘めた人間。
それは、果たして本当に『人間』だろうか?
「・・・どう思う?ねぇ・・・―――」
微かに色を変え始めた空へと問いかけても、彼へ返される言葉など何もなかったけれど。
***
「ゼロ・・・!」
漸く館へと戻った時には、見えないゼロの姿を探していたのだろうか。アーティエが扉を開けたすぐ傍で待ち構えていた。
「アーティ・・?まだ、日は昇っているのに・・・大丈夫なのか?」
ここは地下でもなんでもない。幾らか傾いたとはいえ、空にはまだ明るいオレンジの光が溢れているのに。
「今の僕なら、平気なの。ううん、そんなのいいの、ゼロ・・・怪我・・・!」
普通に手を伸ばしても、アーティエの身長ではゼロの額には届かない。
懸命に背伸びして腕を伸ばすその姿に、ゼロは苦笑しつつ膝を折って屈んでみせた。
「もう、痛くないよ」
「でも!血が・・・」
アーティエは服が汚れるのも構わず、ゼロの傷を袖で拭う。
ゼロの代わりに痛みを感じているかのような、泣き出しそうなその表情に、ゼロはふと目の前の小さな身体へと腕を伸ばした。
「・・・ゼロ?」
アーティエは、人間じゃない。
それは、アーティエ自身も、周囲の人間も、ゼロだって知っている事実。
けれど、抱き締めた体は温かくて。
人じゃないと分かっていても、アーティエは優しくて、綺麗だった。
人間よりも、きっと・・・・ずっと。
「・・・アーティエ」
そっと名前を呼んで、抱き締めた腕に力を込めた。
見上げれば、少し不安そうなアーティエの宝石の瞳と見つめ合う。
・・・暫し、沈黙が流れ・・・。
どうして、そうしたかったのか。ゼロにも分からなかったけれど。
ただ、無意識で血に穢れた右手を差し出し、柔らかな頬に触れる。
無言のまま滑るように首筋へと移動した手で、綺麗な肌を撫で上げた。
「・・・・っ、・・・」
途端、立っている力を失ったように、アーティエはゼロの腕へと身体を預けてくる。
揺らめいた視線をもう一度交わらせた時。
そうなることが当たり前だったと思えるほど。
自然に、唇が重なった。
***
どれだけ、そうやって冷たい床に座り込んでいたのか。
ただ、寄り添う身体が温かくて。
少しでも離れてしまうことさえ躊躇われて。
離れられないまま、窓の空が青く褪めて行くのを静かに眺めていた。
「・・・ゼロは、ずっとここにいてくれる?」
「・・・そう、だね。・・・僕ももう、君と離れたくない」
この身がどれ程の時を堪えられるのか、それは分からないけれど。
「残された僕の時間全て。・・・君と共に過ごすために、使いたい」
「うん・・・」
少しだけ、寂しそうに頷いたアーティエが、改めてゼロに微笑もうと視線を向けた時。
ドン・・・っ!
「・・・何だ?」
びりびりと震える館は、先程の音に反応するように揺れていた。
外はもう深い暗闇の中に落ちてしまっている。
今の音は恐らく爆発音か何かだろうが、また昼間のように誰かがここを訪れているのだろうか。
確かめる為に立ち上がろうとしたゼロの腕の中で、小さく震える身体に気付いた。ゼロに抱きしめられていながら、更に自分自身の腕で包み込むように身体を抱きしめているアーティエ。
「・・・だめ、出て、来ちゃ・・・っ」
「アーティ・・・エ?」
「だめ、・・・ゼロ、僕から・・・離れて・・・・ッ!!」
ゼロの身体は意外に強く突き飛ばされ、アーティエはそのまま地面に崩れるように膝をつく。
どこからともなく漂い始めたのは、庭に咲いていた薔薇の香りか。
「・・・どう、したんだ?アーティ・・・?」
次第に濃度を上げていく、噎せ返るような甘い薔薇の匂いの中、俯いて地面にしゃがみこんだまま動かないアーティエの肩へと触れた。
「守らなきゃ・・・守る・・・僕は・・・」
そんな声と共に、ゆっくりと顔を上げたアーティエ。
目はまだ閉じられたまま、長い睫毛が幼い顔の中で酷く妖艶に映る。
肌はいつもにも増して白く、蒼い。
「アーティ、どうしたんだ?アーティエ・・・・?」
声を掛けても、反応は鈍いままゼロを見ようともしない。
「アーティエ!!」
何度も何度も呼んだゼロの声と、揺さ振られた肩への振動に、ゆっくりと長い睫毛が震え、アーティエの目が開かれた。
「良かった、突然どうしたのか、と・・・?」
開かれた奥には碧と蒼の、透明な瞳が現れるはずだった。
一瞬で溺れてしまいそうな蒼い海のような瞳と、どこか懐かしく感じる春風のような碧の瞳が。
だが・・・・。
「・・・どういうことだ?」
開かれた瞳は紅く血液の色に似て、鈍く濡れた光を放っていた。
「・・・ゼロ」
「アーティ・・・っ・・?」
甘い睦言のような声で名を呼ばれたが、それでもほっとして名を呼び返せば、ゼロは突然の衝撃に慌てて地面へと手を突いた。
肩を強く押され、まるで押し倒すかのように腰へと乗り上げてきたアーティエは、驚いた表情を浮かべるゼロへと、華のように微笑んでみせる。
「・・・会いたかった。ずっと・・・ゼロ・・・」
「・・・っ!」
間近で見つめられて、息が詰る。
見つめてくる瞳は紅い。
ゼロが惹かれた、透明な宝玉の瞳ではないのに。
「僕は、ずっと知ってたんだよ。ここに、ゼロが戻って来ること・・・僕に会いに来てくれるって・・会えるって、生れた時から、ずっと・・・」
耳元で囁かれて、ゼロの全身には歓喜なのか嫌悪なのかわからないが鳥肌が走る。
触れられている肌に感じるアーティエの体温は、先ほどまでとは打って変わって氷のように冷たい。
「ちょ・・、アーティ・・・どう、したんだ?」
弱々しく抵抗するように肩を押しても、アーティエは止めようともしないでさらに身体を密着させる。薄手の純白なドレスワンピースは、華奢な身体の線を邪魔することなく引き立てていて・・・。
「どうも、しないよ・・?ただ、今の僕は、全部知っている・・・それだけ」
「・・・っ・・!」
アーティエは微笑みながらゼロの頭を愛しげに胸に抱き込み、まだ微かに血の流れる傷へと唇を寄せる。
小さく走った痛みは、何故かその途端に消えた。
「・・・何、を・・?」
「全部忘れちゃった?・・・なら、教えてあげる。でも少しだけ待っていて」
呆然と座り込んだままのゼロの唇へ柔らかな感触を残して、アーティエはゆっくりと立ち上がった。
「・・・待て!待つんだアーティエ・・・!君は・・・っ・・・!」
走るでもなく、急ぐでもない。けれどゼロが止めようと手を伸ばした時には、もうその姿は部屋にない。
「・・・あれが、吸血鬼?・・・違う、こんな・・・」
アーティエが残していったキスの味は。
甘く濃い華の蜜のような・・・・――――血の味がした。
***
辺りに漂い始めた、燃える火薬の匂い。
「居るんだろ?!これ以上壊されないうちに出て来いよ吸血鬼!!」
館の門の傍に、四、五人の人影が見える。アーティエは知らないことだが、そのうちの二人は昼間ゼロに絡んできた少年達だった。
開かない門の外から、爆薬らしきものを投げ込んでいるようだ。
「それとも話は全部ガセで、お前の一人芝居か神父サマよぉ―――!」
あからさまに楽しんでいる様子で、大声で笑う若者達。
無残にも穢されていく美しい庭園に、ふわりと白い光を纏ったアーティエが姿を現した。
「やめろ」
火の燃える音と、青草の焼ける匂いと煙。
どんな爆発でも開こうとしない門の向こうに、それは居た。
金の髪に、紅い瞳。その折れそうに細い身体を包んでいるのは、純白のドレスワンピース。
「へぇ、あの神父もやるもんだ。こーんな可愛い娘と二人っきりだとよ」
男達が軽い口笛をあげる。
「吸血鬼騒ぎだって嘘くせぇ。だって死んでたヤツらの死体って血がたっぷり残ってたぜ?」
「それも口の煩い堅物青年だけってか。大方この事件の真相知ってたんじゃねぇの?」
「だからコイツらに殺されたってか、ありえるねぇ」
「聞きゃあイイんだろ?力ずくでも・・・っな!」
火の付けられた火炎瓶を、一斉に投げ込む男たち。
「やめろって言ってるのに・・・言葉、通じてない?」
凛とした、良く通る透明な声がその場に響く。
爆音で、叫ばないと聞こえないこの炎の中、囁いたその声だけが浮き出る様に轟いた。
「・・・可愛く、『やめて』って叫んでくれたら、止めてやっても良いなぁ」
けれど、誰もそんな些細なことには気付かす、ただアーティエの容姿に歪む顔をだらしなく曝け出す。
「なぁ、ここ開けてくれよ。俺たちと楽しい遊び、しようぜ?」
そう笑いながら触れた瞬間、重い門は音もなく簡単に開いた。
「ありゃ・・・鍵かけてなかったのかよ、確かめずに爆弾に頼っちまったじゃねぇか」
門の正面に立ち尽くすアーティエは、何も言わない。
ただ、歩いてくる数人の少年達へ、柔らかい笑みを浮かべているだけ。
「へぇ、中は結構綺麗なんだな。余計、あの神父腹立つぜ」
「神父と何して遊んだんだ?俺らとも同じ事してみねぇ?」
「・・・いいよ。誰から遊ぶ?」
甘いお菓子の様に微笑んだアーティエを、少年達は花に群がる虫のように取り囲んだ。
「みんないっしょに相手してくれると嬉しいねぇ?」
「・・・ん、それでもいい」
少年といえども、若い雄の飢えた腕が、アーティエの身体に触れる・・・。
「駄目だ、その子に触るな・・・!」
館から離れた門までやっとのことで辿り着いたゼロは、アーティエに群がる男達に向かって叫んだ。
「今更遅いぜ神父サマよぉ。ネタは全部上がってんだ、言い訳しても・・・」
「そうそう無駄だぜ。それに俺たちと遊んでくれるって言ったのコイツだし・・・・ん、どうした?」
最初にゼロに口を開いた男は、膝を折るようにかくんと倒れ込んだ。
「いいから逃げろ!離れないと、殺される・・・!」
「は?何言って・・・」
二人目、三人目と、少年達は枯れ枝のように倒れて行く。
倒れた男達の首筋には、2つの穴と赤い液体。
「ちょ、待て・・、お前、まさか・・・!」
腰を抜かした四人目の少年がアーティエを指して震えている。
「ウソ、だと思ってた?望みどおり、出てきてあげたのに」
唇の端についた血を拭って、さも可笑しそうに笑うアーティエ。
「お、おい、やめろ、近付くな!止めてくれ・・・っ!!」
けれど、アーティエの瞳と視線を交えてしまった瞬間、男は呼吸を奪われたように真っ青になって動きを止める。
静かになったその首筋に唇を落として・・・、あっけない程簡単に、男は息を引き取った。
「・・・残ったのは、君だけ?・・何して、遊ぼうか?」
幼く無邪気な容姿は変わらないまま漂う雰囲気だけ妖艶に変えて、悪魔の言葉を囁きながら、アーティエは天使の笑みを浮かべる。
「もう、止めるんだ!」
ゼロは、残った男に手を伸ばしかけたアーティエを、後ろから抱き締めるように身体を束縛した。
「もう、もういいだろう?これ以上、その手を汚さないでくれ・・・!」
「・・・でも、まだ・・・足りない。もう一人の僕は、襲わないから・・・」
口元を拭う指先に付いた、赤い人間の血。
ゼロはアーティエの前に膝を付いて跪き、神服の襟元を軽く緩めた。
「・・・足りないなら、僕から奪えば良い。・・・味は、保障しかねるけど」
立ち尽くすアーティエの髪に指を絡ませ、首筋へとそっと抱き寄せる。
少しだけ迷うような素振りをしてみせたアーティエだけれど、口元に触れる熱く流れる血の音に、甘えるように舌を伸ばした。
「・・・っ・・ぅ・・・!」
肌を牙が突き破る瞬間、激痛が脳天を貫く。
けれど、痛みに突き放しかけた腕でゼロはもっと深く力を込め、アーティエの身体を抱きしめた。
「・・・ん・・・っ、ゼロ・・?」
次にゼロの首筋から視線を上げたアーティエの瞳は、元の色に戻っていた。けれど、今味わったばかりのゼロの味が消えた訳ではない。
「僕、どう、して・・・・」
こんなことをするつもりじゃなかった。
廻りを見渡して、そしてゼロの首筋に流れる血を見て、痛みに似た表情を浮かべたアーティエの瞳の上に、ゼロは無言で右手を乗せた。
「・・・暫く、眠っていて」
途端、アーティエの身体は力を無くし、ゼロの腕の中へと頽折れる。
小さく幼い頬に流れる涙をそっと拭って、ゼロは腰を抜かしたままの少年に視線を移した。
「・・・確か、『覚えてろ』って、言ってたか?」
人非ず者以外に使うことは、硬く禁じられていた。
けれど、本来ゼロが守るべき『人間』を守ってやろうとは、もう思わない。
今まで、視界を遮っていた薄いガラスを、そっと外す。
身勝手な人間は、己と違う、己よりも秀でた種族を嫌う。
例えその構図が捕食者と餌という形になろうとも。
「・・・アーティエは、町を襲ったりはしなかっただろう!?」
途端、吹き荒れた突風が庭園の花を激しく散らした。
「ひ・・・、う、うわぁあああああ―――――――っっっ!!!!」
ゼロの目の力は、昼間間近で見せ付けられた。
全身を走り抜ける恐怖に叫びながら、少年は走って逃げる。
「この子はただ、ここを守りたいだけなんだ・・・」
それを、度胸試しだ人間の敵だと勝手に騒いで、荒らしているのは人間の方なのだから。
ざわざわと揺れる草木に紛れて、地面に転がったままの少年達の身体が茨に絡め取られていく。きっと、この館自体も『生きて』いるのだろう。唐突に、ゼロはそう理解した。
「・・・・アーティエ」
抱き締めたアーティエの身体は温かい。
「僕が、必ず・・・守ってみせるから」
夜風に触れたアーティエの金の髪が、きらきらと輝いていた。
4、戒告―KAIKOKU―
「来やがった!裏切り者が現れたぞ!」
森を抜けて少し歩いたその先に、数日前ゼロが背にした町がある。
一人向かって歩くゼロの姿は、もうどこからも神父には見えなかった。
着ているものは変わらない、黒の長い神服。けれど、胸で揺れていたロザリオはそこになく、手に持っていた聖書も見当たらない。黒い髪は流れる風に吹かれ、綺麗な顔を隠すものはもう長い前髪しかなかった。
邪を払う銀の眼鏡も取り払われた瞳は、酷く鮮やかに町民達を映す。
「・・・今更、この町に何の用じゃ?この裏切り者」
もう、ゼロが依頼をこなしてくれるとは、町長も考えてはいない。
ゼロの視線と交わらないように少し下を向いたまま、それでも威圧的に話す町長に、ゼロは小さな溜め息をついて、答えた。
「・・・もう、あの館へは来ないでくれないか」
「・・・何ぃ?」
宣戦布告をしに来たのだと思っていた町民達は、困った表情を浮かべるゼロを無遠慮にも眺め回す。
四方をぐるりと剣や鉈を持った男たちが囲んでいても、ゼロの表情は微かに悲しげなままだ。
「僕はあなた方と争いに来たわけじゃない。ただ、僕らのことはもう忘れて、放っておいて欲しい。・・・それだけ、伝えに来たんだ」
「何だと・・!?よ、くも、抜け抜けとそんなことが言えるな!!」
「あたしらは、子供を殺されたんだよ!?それで、のうのうと生きてるあんたたちを許せって言うのかい!?」
彼らは昨夜の、死んだ四人の少年の親なのだろう。近くに、同じような恨みの篭った眼差しで見つめてくる目に、彼らもまた親なのだと気付く。けれど。
「・・なら、僕らは無抵抗に彼らに殺されていればそれで良かったのか?」
「・・・!!」
「元々、伝説や噂を信じてアーティエの血を奪おうとしたのは、どこの誰だ?あの子はあの屋敷から出たこともないのに、どうやってこの町を襲うんだ?人間が先に、あの子を襲ったんじゃないのか?・・・どうなんだ」
言葉こそ、責めるような意味を秘めているが、ゼロのその声は、道を誤った者達へ気付きを与えるような神父の言葉に似ていた。
いや、そのものであったけれど。
「・・・化け物が、何を偉そうに」
しわがれた声を更に枯れさせて、町長は激しくゼロを怒鳴りつけた。
「どいつもこいつも神父の癖に、人間の癖に、どうしてあんな化物を庇うんじゃ!?いつ人間を襲うかも知れぬ血に飢えた吸血鬼を!!!」
「・・・神父?」
「結局、お前も同じじゃ!いや、あやつより闇に近いお前に聞かせても、意味も無い昔話じゃろうけどな・・・!」
***
それは、伝説の真実。
伝えていた人間の手で、意図的に作り変えられた物語。
「数百年前にも、お前のような裏切り者がこの町に居た」
彼の名前は、ジョウイ=アトレイド。身体が弱く、長男ではあるがその病弱さ故にあまり期待されていなかった。
彼の家は代々町の教会を守る役目を担っていて、彼はそこで働く神父であったという。
けれど、出かけた先の森で怪我をして、獣達から逃げるようにあの館を訪れてから、彼は見る間に変わっていた。いや、彼を見る町人達の目が。
ただの廃屋のはずである館へ、ジョウイは仕事も忘れて通い始めた。
そこで何を見つけたのか、病弱であったはずの彼の身体は、日に日に生気を取り戻したかのように健康体になっていくのだから。
それが、聖なる力であるはずが無い。闇の者に魅入られてしまったと誰かが言い、また誰かが秘密の薬があるんじゃないかと言い出す。
そして、化物退治とは名目だけの、不老不死の秘薬を手に入れるために、町民がこぞってあの館に向かった。
壊される壁に、壊される門。
ジョウイは気でも狂ったのか、館の中に潜むそれを守ろうと必死だった。
神父の癖に、闇の住人である吸血鬼を守ろうとしたのだ。
それを押し切って、屋敷を踏み荒らすように入ってしまった町民達の運命は、儚くもそこで潰えることになる。今の今まで大人しかった吸血鬼は人相を変えたように、次々と人を襲い始めたのだ。
そこで彼らは漸く気付く。
本当に人ではない者が存在していたのだと。
弱い者を蹴散らす気で居た彼らは、突然自分達が弱者の立場に立ったことに堪えられなかった。だから、非難していた彼へも救いを求めた。
・・・その時、ジョウイが何を考えていたのか、分からない。
ただ自分へと歩いてくる吸血鬼を前に、自己防衛しただけかもしれない。けれど・・・・・。
彼は、涙を流しながら、十字架を掲げたのだ。
直接触れた聖物の力に肌を焼かれ、吸血鬼は逃げるように館へと踵を返した。そして町民達も、館から逃げ出した。
途端、屋敷は茨に包み込まれて、降り注いでいた月明かりも暗雲に覆われていく。
再び閉じられた世界の中で、ただ一人。ジョウイだけは。
沢山の死体に囲まれたまま、ずっと泣き続けた。
けれど、それで人間の世界は終らない。
初めの目的すら忘れた人間たちはジョウイが化物を目覚めさせたと、町を襲わせたのだと口々に言い始めた。矛先は一気にジョウイへと変えられ、眠りについてしまった屋敷の前で、彼は処刑された。
けれど、急激に減ってしまった人口と、信用が崩れて追い立てられたアトレイド一家の経緯を外部に漏らすのはあまりいいことではない。
だからこそ、すべての原因を吸血鬼が町民を襲ったということにしておいて、自分達の罪を隠そうとした。
「いや、わしらはあの頃の人間たちが、罪を犯したとは思っておらん。あの神父は実際に、闇の住人と通じておったのじゃからな」
捻じ曲げられた真実は、より人間を被害者に見せるため。
数百年前に神父が病んでいたとされる疫病は、今再びこの町を襲い始めた。若者のみがかかる流行病。
まだ人間の医術では、その病に対する特効薬など見つかっていない。
「わしらは昔話の通り、あの館に全ての秘密があると睨んだ。過去神父が侵されていた病こそ、今わしらを苦しめている病じゃからの」
「・・・あそこには、何もない。ただ、切り取られた時間の中で生きているアーティエくらいしか・・・」
「それじゃよ。・・・時間の束縛から逃れた化け物の血。それこそ、過去の神父がその身体に受けた秘薬に間違いないんじゃ!」
何度か館へ向かったけれど、あの門はどうやっても開かず、次第に彼らの行動は激化していった。
「門を吹き飛ばす爆薬を作ったり、生い茂る茨を枯らす薬を撒いたりしたが、一向に効果は現れん。そのうち、誰かがそれを否定し始めた」
こんな館に何があるのか。もっと大きな町へ行って、人間の手でこの病を克服するべきだと。
意味の無い行為なのだと騒ぎ立てた青年達を、また誰かが裏切り者だと囁き始めた。
彼らも元はこの病に感染していた。けれど、館を襲う手前になって意見を翻した彼らの病は、完全に完治していたのだから。
「あやつらも、密かに化け物と通じておったに違いない。自分達だけで占領するために我々を止めたのだ。・・・じゃから、我らは制裁を下した」
昨日訪れた若者達が叫んでいた言葉を、ゼロは唐突に思い出した。
「・・・死体には、血が沢山残っていたと・・・まさか、あなた方は・・・」
「そうじゃよ。闇と通じた人間などもはや人でもない。我らの敵じゃ」
きっぱりとそう言い切った町長に、ゼロは怒りを通り越して哀れみを覚えた。真実など、どこにも見えていない。いや、きっとどうでもいいのだ。
周りで頷く大人たちも同じだ。身勝手に善悪を決めて制裁を下す。
誰も、それが悪いこととは微塵にも思ってもいない。
「・・・どこまでも、身勝手な人間だな。自分達が助かれば、他はどうなろうと関係ないのか?」
「・・・おぬしは!死にたくないとは思わんのか?わしは、わが子らを死なせたくない!それに、いつこの病が大人に感染し始めるかわからん!」
嘆くような声で呟いたゼロに、町長は激昂するように叫んだ。
その声に呼応するように、手に武器を持った人間たちは、じりじりとゼロとの距離を詰める。
「死なない化け物には、分からないだろうよ!」
「人間さまの苦しみを、理解したような顔で言葉を吐くな!」
「ばけもの!きえちゃえ!」
「・・ッ!」
最初は、子供が投げた石だった。それが、矢に変わり槍に変わり、地面に跪いたゼロへと降り注ぐ。
「貴様ら化け物からすれば、人の一生など瞬き一瞬の合間かもしれん!じゃが、人はそんな短い間にも、必死で生きようとしてるんじゃ!」
「・・・だからと言って、教会は誰かを殺していいなんて教えてないよ」
突如、吹き荒れた突風は、ゼロを中心にして町人達を薙ぎ倒した。
相当な数の矢が降り注いだというのに、ゼロの身体には殆ど当らないまま地面へと落ちている。
「・・・っな!?」
「あ、貴方様は・・・!」
その場に現れた人物に、誰もが驚きを隠せずにはいられない。
中央教会・最高司祭。
「・・・ルック?」
「手酷くやられたね・・・。まぁ、このくらいじゃ君は死ねないけど」
殆ど人前に姿を現すことのない、現人神のように扱われている彼がこんなところに現れるだけでも稀なことだが、それ以上に。
「司祭様!どうして、そんな奴を庇ったりするのです!?」
「そいつは、我々人間に仇をなす存在ですぞ!」
「殺してしまえ!館の吸血鬼共々火炙りだ!」
口々に叫び始めた町民を一瞥して、ルックは静かに口を開いた。
「黙れ。・・・彼は、僕が・・・教会が保護する神父だ。・・・それをよくもまぁ手荒に扱ってくれたね・・・?」
「し、司祭様・・・?」
「元々、君達が騒ぐから彼を貸し出したっていうのに・・・もう、君達なんて誰も守ってくれないよ」
「・・・ルック?・・・どうして、ここに?それに、僕を貸し出したって・・・」
傷を負ったゼロに微かに微笑んで見せ、ルックは館の方を振り返った。
「ここにはあまり長くいられないね。早く戻ったほうがいい」
「ルック!僕が聞いているのは・・・!」
「良いの?・・・あの子が、危ないよ?」
ルックが指し示した方角の空に、黒い煙が上がっている。
「・・・アーティ?・・・これは、どういうことなんだ?!」
破れた黒い神服を赤い血で更に黒く染め上げながら、ゼロはゆっくりと立ち上がった。
激しい視線は、武器を持ったままの彼らへと向けられている。
「・・・ひ、こ、こっちは後回しだっ!先に向かった奴らに合流するぞ」
「もう教会なんて信用できねぇ!おれ達の力でやるんだ!」
「先に吸血鬼の方から潰せ!薬を、血を手に入れろ!」
ゼロの激昂に驚いた彼らは逃げるように、我先にと館へ向かっていく。
「っ、待て・・・っ!ぅあ・・・ッ!」
追いかけて走ろうとした身体は、負わされた傷ではなく、赤に染まった視界に激しい頭痛を感じて立ち止まった。
昨日と同じように、血を見た途端知らないはずの記憶が脳裏を走り回る。それは記憶としてではなく、断片的な写真のようなものだが、酷く悲しくなるのはそれが実際ゼロの記憶だからなのか、それは分からない。
「・・・無茶をする」
その身体を支えてくれたのは、ルックだ。本来司祭という者は穢れを極端に嫌う。穢れればそれだけ、神聖な力を失うからだ。
けれどルックは純白の司祭服を血で穢されようが全く気にしていない。
よろめいたゼロの苦痛に気付いているのか、耳元で小さく何かを呟いた。
「・・・っ、は・・何、を・・?」
途端、過去の残像は形を崩し、頭痛は嘘のように消え去った。
「・・・君は、知らないままでいい。思い出さないで、そのまま・・・」
「・・・ルック?・・・何か、知っているのか?」
地面に膝をついた体勢のまま、頭を包むように抱かれて、ゼロはルックに問いかける。
「・・・・・・・」
その声にルックは無言のまま身体を離すが、それで引き下がれるゼロではない。
「何なんだ、僕は、・・・!ルック!」
掴んだ腕が痛かったのか、顔を顰めたルックは一瞬迷い・・・・それでも、ゼロに向かって頷き返してくれた。
「・・・分かったよ。・・・でも、今は急いだ方が良さそうだ」
その視線は、煙の上がる館の方角。
「掴まっていて・・・行くよ」
ふわりと空気が浮き始め、勢い良く木立を揺らしたその瞬間。
二人の姿は、その場から掻き消えていた。