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「・・・っ・・」
城が揺れたような悲鳴に、オミは沈んでいた意識を取り戻す。
ぼんやりと明るい光は、揺れるオレンジの蝋燭の灯火。
「目を覚ました・・?良かった」
固くごつごつした石の上に、申し訳程度の布を引いて、オミはその上に寝かされていたらしい。
「こ、こは・・・?」
「城の地下。・・・旦那様が昔、封印されていた場所」
「封印・・・?君は・・・」
そこで、ぼんやりしていた思考が漸くはっきりする。
寝そべっていたオミは慌てて体を起こす。首筋に感じた引き攣るような痛みに顔を顰めるが、何よりもまず態勢を整える方が先だ。
けれど、怯えを感じたオミの仕草に、アイリは小さく苦笑して、目を伏せた。
「・・・ごめんなさい。巻き込むつもりはなかった」
「そう、言われても僕は・・・」
と、そこで漸く気付いたが、首筋の傷はきちんと手当てが施され、清潔な包帯で巻いてあった。
もう血も流れていない。
「これ、君が・・・?」
「下手だけれど、何もしないよりはと思って」
そう言って、アイリはオミにグラスを差し出した。透き通るような透明度の水は、いかにも冷たくて美味しそうだったが。
「・・・何にも入ってない。不安なら、あたしが先に飲もうか?」
「・・・いいよ。疑ってごめんね。・・・貰うよ、ええと、アイリ・・・?」
「・・・うん」
「ありがとう」
オミが動けるようになるまで、大した怪我もしていなかったためにかそう時間は掛からなかったが、アイリは献身的に手当てを施してくれた。
問い掛けた質問にも、いくつかは丁寧に答えてくれたし、彼女には敵意が感じられない。
寧ろ、好意のみで、色恋に慣れないオミはそれをどう扱えばいいのか分からなかったけれども。
アイリは、オミに何も望まなかった。
だからこそ、オミも何もしなかった。
ただ一つ、アイリがオミに許さなかったことは、この地下から出て行くことだ。
確かに、疲労した体でノコノコと上がっていけば、リィナかセフィリオに見つかるのは時間の問題だろう。
そして何故か、セフィリオよりリィナに見つかった時の方が危険なのだと、本能のどこかで気付いていた。
窓もなく時間の感覚が掴めない地下は、数度襲われた眠りのせいで体内時計も完全に狂う。
それでもそんなオミの時間を潰してくれる物が、この地下には大量に眠っていた。
「・・・書庫?ここが・・・そうだったのか」
オミの一族の誕生から、繁栄まで。
どうしてこの紋章を身に宿してきたのか。
力の使い方、その効力、そして、この城に住み着くようになった理由。
「・・・元々は、彼の城だった・・・だって?」
オミの一族がこの城に住まう前、この城の主人は領主セフィリオであったというのだ。
長い年月、彼は穏やかに暮らしていた。
人を襲うこともなく、月に一度ふらりとどこかに旅立っては、またフラリと戻ってくる。
月日が流れても老いない彼を、人々は人ではないと知っていた。けれども、穏やかで美しい領主に誰も何も言わなかった。
だが、そんな穏やかな生活は、突如音もなく崩れ去った。
詳しくは記載されていなかったが、彼が糧を永遠に失ったと書かれていた。
同時に仲間を失い、哀しみに明け暮れる前に、『それ』は起こったという。
城を取り囲む町中の者達が、彼を倒そうと立ち上がったのだ。
人間ではない誰かに治められ大人しく出来るほど、人間は貧欲ではない。
元々強欲な生き物の人間は、土地を取り戻す為だと自分勝手な正義を振りかざし、彼の城を襲った。
もし彼等がそんな暴挙を起こさねば、時を待たずして彼はこの城を去ったというのに。
飢餓に苦しんでいたセフィリオは、襲ってくる町人を全てを餌とし、その飢えを凌いだという。
いつしか町は壊滅。残ったのは、セフィリオの住まう城のみとなった。
そこに現れた一人の少女。
涙を流しながら血を啜る獣に向かって、光り輝く右手を差し出しながら微笑んだという。
『苦しみからの解放か、痛みを忘れる眠りか。・・・どちらかを選びなさい』と。
「・・・そして、彼は眠りを選び・・・この城を彼女に明渡す・・・だなんて」
憎んでいると思っていた。
彼は人を、全てを。まして、城を奪ったオミの一族を憎んでいると思っていたのに。
その時かしゃんと、背後で何かが落ちる音がした。
「アイリ・・・?」
「あ・・・ぁ・・・」
逃げるように後ろへと足を下げるアイリの様子に、オミもアイリの視線を追う。
「・・・こんな所に隠していたのか。確かに、彼は宝だよ。僕の、大事な・・・ね」
現れたのは、セフィリオ。彼の白い上着は、飛び散った真っ赤な血で穢れていた。
それが誰のものかオミには分からない。けれど、アイリには分かったようだ。
「・・・旦那様、姉は・・・リィナは・・・」
「あぁ、君とは姉妹だったか。・・・残念だけれど、僕を邪魔するとこうなる・・・ということだ」
悠然と答える彼の表情に、痛みはない。
もう、誰かを壊すことなどに痛みなど感じなくなってしまったのだろう。
「君も、僕の邪魔をするなら消えてもらう。素直に返すなら、見逃そう。・・・さぁ、どうしようか」
「・・・・!」
それでも、アイリは身を引かなかった。
オミとセフィリオの間に立ちはだかって、首を振る。
「・・・そうか、残念だ」
伏せていた目を静かに上げようとしたその時、オミは咄嗟に立ち上がってアイリを背に庇った。
何の根拠もなかった。けれど、立ち上がったオミに、セフィリオの動作が止まる。
「・・・何のつもりかな」
「貴方は僕が手に入ればそれでいいんでしょう。・・・彼女は、関係ない」
「君をここに閉じ込めたのは彼女だよ?」
「でも!アイリは、僕に何も望まなかった・・・!寂しかっただけなんだ、彼女も・・・貴方も」
「「!」」
オミの言葉に、アイリとセフィリオは同時に息を飲む。
この空間の中でたった一人の人間であるにも関わらず、オミには怯えがない。
アイリでさえ、セフィリオの放つ殺気に怯えていたというのに、オミの表情はただ静かに柔らかい。
「・・・読んだのか」
「全部じゃ、ないけど・・・何となく、そう思ったんだ」
オミは、後ろに居るアイリを振り返って、そっと微笑んだ。
「だめ、行っちゃだめだよ!行ったら」
「大丈夫。・・・彼は、少し忘れているだけなんだ」
「でも・・、あたしも、酷いこと・・・」
言いかけたアイリの言葉を制して、オミは首を振る。
「君は何もしてない。むしろ僕を助けてくれた。もし、それでも・・・僕に悪いと思うなら。・・・ニナだけは助けてあげて」
「・・・オミ・・っ!」
「・・・ありがとう」
差し伸べるセフィリオの手を取って、促されるままに歩き出す。
人ではないのだ。ましてや、人を糧にする敵なのに。
「・・・・」
血に濡れた彼はそれでも、酷く美しいと感じていた。
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何時間閉じ込められていたか分からなかったが、オミは地上へ昇りつつも、そう大して時間は経過していないのだと理解できた。
雨こそ止んでいるものの、まだ外は暗いままだ。
地上の玄関ホールへと続く階段を昇りながら、オミはセフィリオに問い掛けた。
彼の過去を。
オミが知った紀伝に記されていなかった、彼の真実を。
躊躇いはしたが、それでも彼は少しずつ語り始めた。他人の血に汚れているのに、酷く無垢な表情で。
「・・・そうだ。僕は・・・この地を治める貴族の息子だった」
まだ人間だった頃。好奇心に駆られて付いて行った旅の途中、野党に襲われ全てが壊滅した。
父母は勿論、兄弟も、従者も全て無残に殺された。
セフィリオももう虫の息であった。けれど、まだ死にたくないと望んでいた。
血の匂いに惹かれて、魔物達が近寄ってくる。
近付く最期の時を待ちながら、それでも彼は遠退く『生』にすがり付こうとしていた。
その願いがどうやって届いたのかは分からない。
『人の道を捨てても生きたいか』と問われた時、何も考えずに頷いていたのだろう。
次に目覚めた時は、見たこともない集落で、彼は仲間として受け入れられていた。
村の中央にある祭壇に近付けば、乾いた喉も飢えた飢餓も不思議と癒えた。
何を口にせずとも、満たされることが素晴らしくて、そんな体に変わったことを嬉しく思っていた。
けれども、彼は人間であった頃のものをひとつ、捨てきれなかった。
彼が、彼の父が治めていた城は、戻らぬ家族を待ち続けているという。
そうして彼は村から出ることを決め、体が乾けばその恩恵を受けに村へと戻るという暮らしを始めたのだ。
人を襲うなどとは、考えた事もなかった。
けれど、その全ては一人の男と大勢の人間によって崩されてしまった。
「・・・反乱と、裏切り・・・」
「そう。・・・あの時の僕は飢えていた。初めて知る飢餓感に、何も分からなくなっていた」
手始めに傍仕えの生き血を啜り、その味に酔いしれた。
駄目だと理性が思っても、本能には勝てはしない。
数度繰り返しているうちに、快楽に蕩けた体の方が、血を甘く変えると言う事を知る。
これ以上誰かを殺してしまう前に、早く城から出なければと思ったが、それももう遅く。
飢えと、新たな世界に足を踏み入れたばかりの彼は、血相を変えて襲ってくる人間は全て『餌』にしか見えなかった。
語る彼の顔に、痛みはない。柔らかく微笑む彼が逆に痛々しくて、オミは血に濡れた彼の頬に手を伸ばす。
オミの手を愛しげに包みながら、セフィリオは、そっと苦笑した。
「・・それでも、僕はまだ『僕』だった。気付かずに、流していた涙を拭ってくれた手が、それを思い出させてくれた」
彼女はセフィリオを城の地下に封印し、彼の眠りを妨げぬ様守ると誓ってくれた。
彼女の血を、紋章を継ぐ者が暮らしていれば、それが封印の鍵となるが、薄れ行く権力に怯えたオミの祖先は、呼ばれるままに人の多い土地へと移り住んでしまった。
その間に、城の近くには再び町が栄え始める。守人を失った城は封印が崩れ、セフィリオは再び目覚めてしまった。
「何も出来なかった。何もしていない。・・・ただ数度話しただけの彼女を、僕は本気で愛していた」
先ほどの、アイリの前で見せた表情とは打って変わった、傷付きやすい微笑みを浮べて、セフィリオは笑う。
綺麗な微笑みなのに、向けられた笑顔にオミは何故か少しだけ悲しくなった。
そこで漸くオミは、彼に告白されて怯えてはいたものの、かすかな優越感を得ていた自分に気付く。
そして、違う誰かを愛しげに思うセフィリオに、自分の心を知った。
この感情は何かの間違いだと思っていた。
けれど、誰かをこんなにも強く想うのも、初めてだから。
「・・・・まだ、寂しい?」
「・・・寂しいよ。僕の傍には誰も居ない。・・・誰も、この痛みに気付いてくれない・・・君以外は」
恐ろしいと感じていた恐怖は、もう微塵も感じない。
不安定なだけなのだ。彼も人間と同じように崩れやすい心を持っているのだと。
力がありすぎて、制御が出来ず、その力のためにまた何かを失う事に怯えているだけなのだと。
「・・・僕でいいなら、傍に居る。・・・だからもう」
泣かないで。
寂しがらなくて、いいと。
ドォン・・・・!!!
「な・・・」
言いかけたオミの言葉は途切れ、同時に数人の足音が城の中を走り回る。
「出て来やがれ化け物!!お前なんかこのオレ様が退治してやるぜ!」
「調子扱くなシーナ!おれ達の目的を忘れたのか?!」
壊された扉は無残にも砕け散り、綺麗に磨かれていた床は泥だらけの靴に汚れ、穢れていく。
「・・・止めろ・・・!」
この城は、セフィリオの生家。
そして、彼女が老いて死ぬまで。彼女に続いて数代の子孫が暮らした場所。
扉は次々に壊され、調度品も派手な音を立てて割れていく。
また、見ず知らずの人間に破壊されていくのか。
「だめだ、見つかったら・・・!」
「止めろ・・・それ以上、この城を汚すな・・・!!」
オミの制止も聞かず、セフィリオは怒声を上げる。
階段の上から叫んだセフィリオの声は、ざわざわと賑やかな彼等にもはっきりと聞こえた。
全ての者が、彼を見上げる。
白い服を真っ赤な血で染め、怪我に包帯を巻いたままの少年を腕に抱えた化け物の姿を。
「いたぞ・・・!逃がすな!!」
飛んでくる矢じり。鋭い槍は彼を狙って、彼の腕の中にいるオミの姿など見えないように降り注ぐ。
「馬鹿!人間が居るだろうが!!当たったらどうする!?」
「大きな勝利を前に、小さな被害なんか気にしてられねぇよ!アイツさえ、アイツさえ殺せば・・・」
「悪いのは人質を取るあいつだろ!卑怯者に遠慮なんてしてられない!」
「違う・・・!!!」
セフィリオに庇われて、大事ないオミは、その腕の中から叫んだ。
これでは、セフィリオが全てを失ったあの夜と同じだ。
また惨劇は繰り返されるのか。
憎まなくてもいい人間を、彼はまた憎まなければならない。
「何もしない!彼は、何もしないから!!これ以上、彼の傷を広げるのは、もう止めて・・・!」
「何だって?・・・じゃあ、消えたニナや他の少女達は」
ドン・・・ッ!
言いかけたフリックの言葉は轟音に掻き消え、窓の外を突然の業火が包み込んだ。
雨に多少濡れていても、古い建築物は燃えやすい。
「火をつけるのが早すぎる・・!まだ見つけていないというのに・・あの馬鹿が・・・!!」
火。
初めから、彼らはまともに交渉する気などなかったのだろう。
全てを取り返してその後は、初めからこうするつもりだったに違いない。
「・・・僕らも逃げよう。ここにいて、一緒に焼け死ぬことなんかない」
「でも、この城は」
「城なんて!ただの物じゃないか!命を失ってまで守るものじゃない!・・・人の身を捨ててまで『生きたい』と願ったのは、嘘だったの?」
「・・・オミ」
オミにとっても、出来るならば失いたくないものだった。
オミの一族が残した、悲しいけれど本当の話を、残された一族だけにでも伝えて欲しかったけれど。
「オミ」
歩き出したオミとセフィリオを、後ろから呼び止める声が響いた。
町の者達は慌てて城の外に逃げ出した筈なのに。
振り返れば、そこには・・・・。
「・・・っどうして、ここに」
「迎えにきたんだ。彼らも君を後継者と認めると言い切った。もう恐れる物は何もない。・・・さぁ帰るんだ」
伸ばされた手は真っ直ぐにオミに向けられている。
家は、捨てた筈だった。
しがらみから解放されて、自由になった筈だったのに。
差し伸べられた手を取れば、全てをやり直せる気がして、オミは迷う。
一人は、寂しかった。
姉とも、また会いたかった。
けれど、今オミが掴んでいるのは。
「・・・・ごめんね。でも、僕は・・・」
燃え広がった火は何もかもを飲み込んで、燃やし尽くす。
紅蓮に広がった炎に舐められ、巨大な柱は脆くも彼等の間を断ち切るように崩れ落ちた。
「お怪我は!?」
「大丈夫ですか?!」
轟音とともに庇われ、彼自身に怪我はない。
だが、追いかけてきた筈の婚約者は、またその姿をどこかに消してしまった。
「・・・どこに・・・、オミ・・・!!」
これ以上声を荒げても、きっとオミには届かない。
崩れる城から抜け出した途端、扉は轟音を上げて崩れ落ちる。
曇っていた空が、立ち昇る煙を受けて、再びぱらぱらと雨を降らせ始めた。
†----------+----------†